書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

我慢しなくていい年齢になるということ

 

小さい頃、小銭を握りしめ、もしくはお年玉を蓄えて念願の物を買っていた。それはゲームであったり、漫画であったり。だが今は違う。正確にいえば定職に就きだしてからの話だ。そこそこの欲しい物は欲しいと思ったときにおおよそ買えてしまうのだ。それは一定の収入があるからといえば話はそれまでなのだが、ふと昔のガキの頃を思い出すと妙に胸にくるものがあるのだ。見た目と中身が大人であっても、人はだれでも元ガキであり、心のどこかに童心なるものを備えているはずなのだ。だが、大人特有の考え方、お金の使い方をし続けているといずれは、逃れようのない100パーセントのオトナが完成してしまうのだと思う。私はその一番身近な例が、今回の気づきである「我慢しなくていい年齢になること」なのだと思う。おカネ製造工場から吐き出されたおカネで一寸も悩むことなくただ漫然と買うという行為をしている者に、モノのありがたみ、おカネのありがたみ、生産者への感謝など自然発生的に起こるはずがない。そんなオトナ自身が親になったとき、自分の子供時代と同じようにまた子供に少なすぎる小遣いを渡し、その中でやりくりできるよう、社会勉強の一環だとかいう体にして教育を施していくのだろう。話が逸れたが、何事も我慢しなくていい年齢になるということは、なにか大事なものを欠落させてしまったような不安な心持ちになるのだ。そこそこ好きなものをそこそこの欲求でいとも簡単に手中に収めていくことが、本当に正しいのか。私が未だに答えを出せていない、最も気がかりな部分である。