書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

朝のジムは同志に会える場所

朝のジムは神聖な空間である。顔も名前も知らない誰かと同じ場所に同じ目的をもって集結している。筋トレマッチョさんも、エアロビおじさんも究極的な目的=健康へ向かっていっているのだ。カフェはもっと多様でそれぞれの目的がばらけている。おしゃべりのため、本のため、勉強のため。そんなカフェももちろん好きだが、ジムはまた別の種類の好きである。明日はどんな仲間に出会えるのか。言葉を交わさず、空間内でコミュニケーションを交わす仲間たちよ。

きょうも無難に生きてしまった

大げさな言い方かもしれないが、きょうも無難に生きてしまった。無意識にスマホを確認、無意識に居眠り、無意識にTV視聴。人生の残り時間はだれにもわからないというのに。明日の晩御飯で寿命を縮ませてしまうかもしれないし、運転中にシカと衝突するかもしれない。残りライフがわからないのに、なぜ無難に時間をつぶしてしまうのか。それは今の年齢になんとなく慢心と安心感があるからではないかと思う。年長世代にとっては、私はまだまだ若くいわゆる働き盛りということになるだろう。その視線を感じるがゆえに、あ自分の人生はまだまだこれからなんだと無意識レベルに植えつけられるのだ。だめだ、時間は無限にあるという意識ほど人間を堕落させるものはない。気を引き締める。誰であろうと人間みな、シカと衝突する可能性があるのだから。

僕はゼッタイ一人でやる仕事のほうが向いてます。

今の職務のとき、少し前に相方のような、ペアのような存在がいたがその方は現在退職されている。環境が変わりいま、仕事量は2倍になったかというとそうでもない。仕事のペアという存在がいても結局、コミュニケーションを通じ合わせるというひと手間が加わる。そして、人間のキモチなんてコロコロ変わる。昨日味方と思っていた存在が、今日だけ敵になるということもざらにある。また、一人だと、得意先に気に食わないことがあればその返信メールとかで静かに反撃することもできる。よろしくお願いいたします、じゃなく、お願いします。と語尾だけ変えたり些細なことでもいい。職員の送信するメールなんていちいち誰もチェックしてない。必要なのは、どんな仕事でも自分の気持ちを正直にアウトプットできる環境づくりだと思う。心の溜め込みは可視化できず、爆発したときにしか分からないから。だから日々のセルフコントロールがどこまでも必要なのだ

結婚とは我慢のゆずり合いである

結婚は我慢である。これはよく聞くが、私にはあまりしっくりこない。結婚とは我慢のゆずり合いだ、のほうがしっくりくる。ほんとうに我慢だけなら、結婚をする意味やメリットが完全になくて誰も喜ばない。もう少し踏み込むと、我慢をいかにゆずり合えるかということだと思う。我慢は自分の番が終わったら相手の番へ、相手の番が終わったら自分の番へと順番にしていく。押しつけあいだと悲しくなるから、ゆずりあいという言い方にこだわりたい。手前味噌だが、気持ちが軽くなる魔法の考え方だと思っている。

老眼になっても読みたい本はKindleで買えばいい

 本は、キンドルと紙の二刀流が自分流だ。紙の温もりというのは確かにある。手元に実物を置いておくと得られる安心感もある。いっぽう、言うなればキンドルとは完全なデータである。そもそも本と言ってしまっていいのか。味気なく温もりもない。しかし、いざというときは老後になっても楽しめる。キンドルは文字サイズの変更が可能だ。老眼になり、目の機能が衰えても若いころと変わらず、本の世界に入り込めるというわけだ。

 これは虚しくなるのであまり想像したくないが、言葉の意味を忘れたときでもキンドル備え付きの用語説明機能で意味を思い出せる。現在と老後で明確に線を引かなくてもよい。現在は文字のちいさい紙の本で、老後用にキンドル版を買っておくのもよいだろう。

 冒頭でキンドルのことを本扱いしていいのかと疑問を投げていたが、そもそも本はこれでいいと思う。本はどこまでいっても、けっきょく人間の道具である。ならば、その使用者である人間が欲するようにその形を変え続けるのは必然のことである。キンドルの出現で、逆に紙の本の装丁に惚れ直す人もいるだろうし。両者持ちつ持たれつ。

 さぁ今日はなんの本を読もうか。それに加え、新たに追加された選択肢。紙で読もうか、電子で読もうか。読書における楽しい選択肢がまた一つふえることはなかなか悪くない。