一昨年の夏、僕はもがいていた。八ヶ月間、職がなかった。働き盛りの男が何もしない日々は苦行以外の何物でもなかった。好きなことは何一つ制限された。大好きな喫茶店、料理店、娯楽、人とのつながり、一切を断ち切る他なかった。金銭的な意味合いも強いが、ただ単に全ての欲望が停滞し鈍化していた。心は老人で、見た目だけが若者だった。一般的な欲望よりも、社会から誰一人から必要とされていないことの恐怖を植え付けるには、八ヶ月という時間は十分すぎた。お金は肖像画が描かれた紙きれに過ぎないことを悟った。人が窮地に追い込まれたとき、最後の最後まで欲するのはやはり、人とのつながりだった。
現在でこそ手軽に承認欲求を得られる時代になった。だがそんな安物の他者承認などとんでもない。お金でフォロワーが売買いされる時代だ。そんな空っぽたちをいくら仕入れようが、まったくもって心の平穏は訪れない。お金で買えては意味がないのだ。お金で買えるものこそヤワで、無意味なのだ。お金で買えたものは払い戻せる。その気になれば、一度試してまた捨てるということをエンドレスで繰り返せる。一方で、一度失った心の修復作業は限りなく難しい。
あの日、確かに僕の心は一度しんだ。だけど、今はまた違った景色が見えている。今度は目の前にいろんなものが「ありすぎる恐怖」「選択しても選択しきれない恐怖」といえる新たな敵が立ち塞がっている。そのような贅沢な現実逃避をする、すなわちそれは人間の防衛反応なのだろうか。冒頭で書いたような、対局にある実際経験に基づいた記憶が脳内から呼び起こしされる。今はこれほど幸せなのだ、と。あの時の自分と比べてみろと。選択しても選択しきれないほど、人生が充実していると言えないだろうか?と。長々と説教しにかかってくるのだ。
だが残念ながら、僕はそんなに強くない。孤独な脳は一つだけ。物質に過ぎない。脳は生涯を一つの個体で終えるため、独りよがりになりがちであるというある学者の見解がある。変えられない過去、変えられる現在、変えられる未来。頭では分かっているのだが、心が分かっていない。ひとりよがりなノウミソと、つながりたがりなココロ。腑に落ちないというやつだ。だけど、あのとき八ヶ月間の孤独な戦いに打ち克ち今があるということは事実なのだ。単純だが、その事実が僕に一番のパワーをくれる気がするのだ。事実とは、重要な意思決定の積み重ねである。当時の自分が間違いなく一手一手丁寧に積み上げた過去なのだ。いくら現在の自分に未来の全決定権があろうが関係ない。それが過去の強さなのだ。
そして、僕の性格上、またこの手記のようにどうせ書きたくなって記録に残すだろうから、そういう意味で「書く」ことにはだいぶ助けられている。書くたびにケリをつけ、過去の自分と決別しているわけだ。書けているということは、自分の中で克服し、何らかの形で制圧し、少なくとも消化できたという証だ。もっとたくさん書いて、もっと強くなりたい。もう恐い思いはしたくない。