書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

共有する不自由、共有しない自由

 

 ツイッター脳、インスタ脳になってる人は、自分の身に起きた出来事すべてをとにかく誰かに伝えたくて仕方がない。他人からの反応でよりいっそう「生」を実感しているのだろう。いっけんそれは、最高の自由に見えるが、しょせんは「自分の体験を誰かと共有しなければならない」という不自由に縛られているに過ぎないのだ。

 

 自己承認に他者承認が得られて、初めて自分らしさとなることの不自由さは何たるや。本来は自己承認だけで満たされていたことが、他者承認を欲するようになる。

 

 そんな人しかいないアプリだから、なおさら自分も他人に影響されつづける。一度沼にハマれば最後、自力で這い上がるしかない。アプリに住む人々はいつまでもぬるま湯に浸かっていたい、もっと周囲を引き込みたい人々なのだ。

 

 私がかれこれ2ヶ月ほどTwitterでの発信を停止しているのもそのためである。その確固たる悲しい事実に気づいてしまったからである。渇くことなき欲望ほど恐ろしいものはない。

 

ネット空間くらい、他人の目を気にしないでいさせてくれ。

一歩引いた傍観者でいるのが一番だ。なにごとも。