書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

伝えなくてはいけない病

 

感動することがあれば、すぐさま人に伝えたくなる。人間に生まれつき備わった、心の自然な動きである。スマートフォンが普及する前までは、リアルな他者に思いが伝わればそれでよかった。目的が達せられた。しかし現代においては少々事情が異なる。SNSを使用し、不特定多数に向けて、自身の感情の動きをリアルタイムで一斉送信できるようになった。伝えるということの合理化が図られたのである。同じ内容のものが世界中に拡散され、誰でもが閲覧可能なため、特定の誰かに向けられたメッセージであるというケースは稀である。受け手側の各々が好き勝手に想像し解釈していいという自由が発生する。だがもはやこのご時世、完全な効率化による感情表現は、発信主の感動をそのまま形を変えず、末端の受け手にまで行き渡らせることはほぼ不可能といえるだろう。


思いもよらぬリアクションをされたとき、発信主は大きく落ち込むかもしれないし、感動が2倍3倍になるかもしれない。いずれの結果にせよ、もうそこにオリジナルの自分はいない。全てがひとり歩きしてしまった後だからである。生身の人間と行う極めてシンプルな伝言ゲームでさえ、誤った伝わり方がなされてしまうのだから、個人の複雑な感情表現が最終的に曲解されるのは当然の結果といえるだろう。


喪失するものが些細なものならよいが、自分が最初に経験したことに対する感情表現であれば話はもっと重大になってくる。取り返しのつかないリアクションとなって返ってくる場合だ。


解決策は唯一つ。初めから伝えようとしなければいいのだ。無理に不特定多数に対して発信しなければよい。現代人は何でもかんでも他者と共有しようとする。いったい一日に何人がリアルタイムでつぶやいている?他者を意識している?他者をあてにしている?


発信することでしか自分の感情を処理できない不自由さ。発信する自由がいつの間にか、発信する不自由へと変わっている。不特定多数へのありふれた共通フォーマットよりも、現代人は自分の気持ちの中にグッと留めておくことにこそ価値を置くべきである。人の心のなかで長く寝かされ蒸留されたものこそ本物であり、そうあればあるほど人の心にささるのだ。厄介な伝えなくてはいけない病、そろそろ卒業したいものだ。