なぜ、あの人はあんな発言をしてきたのか?
なぜ、じぶんはあんな発言をしてしまったのか?
といったように、人が「なぜ」を頭につけて考えるとき、人間関係における事柄がまず多いように思う。
一方で、たとえば
「なぜ、きょうは晴れじゃないのだ?」
「なぜ、きょうは電車が遅れているのだ?」
と思うときも稀にあるかもしれないが、そういう個人のさじ加減ではどうにもならない環境的要因におけるものは、比較的後悔感も少なく、そのとき一瞬で心的解決できることが多い。
そしてまさに冒頭で述べた、「人間関係」等はあくまで個人の所感によるが、あとを引きづりやすい類のものだと思う。
このように、人は無意識的に各自の頭の中で「なぜ」の振り分けを行っているのだ。当たり前のように日常的に思い浮かべる「なぜ」である。うまく付き合っていきたいものだ。強力な究極疑問形「なぜ」はその扱い方次第によって、ストレスにもなるし、ドーパミンにもなり得るのだから。