佐藤雅彦著 『毎月新聞』p160より
出張する日の朝、大抵の用意は前の日に済ませてあっても、出かける直前になって急に荷物が必ず増える。「3時間も電車に乗っているのだから、途中退屈になるかもしれない。新聞の他にこの間買った本も持っていこう。もしかして、途中原稿を書きたくなるかもしれない、書きかけのノートも入れておこう。そうだ、車窓の風景をみて、久々にクラシックを聴きたくなるかもしれない、CDウォークマンも持っていこう。」
かくして僕のバッグはパンパンになり、もうひとつトートバッグが増えたりもする。その結果、荷物を持って移動するだけでも疲れてしまい、電車に座ってしばらく経つとぐっすり寝てしまうことが多い。こういう「〜かもしれない」という、もしものための余分な品々を、最近僕は『かもしれないグッズ』と呼んでいる。(中略)
さきほど、『かもしれないグッズ』を持ち歩くだけで疲れてしまって、かんじんの車中は寝てしまうと書いたが、寝てしまう理由は疲労だけにあるわけではなく、むしろ『かもしれないグッズ』を持つことで何か安心感を得ているからとも言えそうである。
本表現に非常にしっくり来たため、長々と引用させてもらった。まさに私の長年の疑問が氷解されたような決定的瞬間であった。異なる環境下に置かれたとき我々は不自然なほど妙に背伸びしようとする。あれこれカバンに詰め込んで、1分たりとも時間を無駄にすまいと強めに意気込むのだ。いつもその意気込み通りになるとは限らないのに。思いもしない結末になるとその度に後悔している。この心の動きが非常に無駄である。物をつめこむことで、時間の喪失と己の責任の埋合わせをしようとしているかのようだ。
かもしれないグッズ。所有者が明確にそう命名してしまうことで、それらを使うかもしれないし、使わないかもしれないという選択の幅が生まれた。
必ず使わなければならないという無言の重圧をまず克服していくことが「モノからの支配」による自己嫌悪からも逃れられるのかもしれない。