書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

私とラジオ

 


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 ラジオは、私が小さい頃から身の回りにあふれていた。両親の車に乗せてもらうとき、社内では必ず地元のラジオ番組がかかっていた。たまたま家族の誰かの好きな音楽が流れたり、コメンテーターの興味深い話が聞けたりすると幸運に思った。
 私は高校受験を終えても、大学生になっても専らラジオを聴いていた。不思議なことにスマホやテレビは「依存症」という単語と引っ付くのだが、ラジオは例外だ。相棒になれば生活の一部になり、ネガティブな影響を受けないためにラジオ依存症とは呼ばれないのかもしれない。そういった、人とラジオの適度な距離感も好きだ。
 私が高校生のときは世間では未だにガラケーが主流であった。しかし、大学生にもなれば世界的に情報化が一段とすすみ、めっきり様変わりしてしまった。ラジオと私の距離も遠くなりかけた。そんな中、心の隙間を埋めてくれる出来事が起きた。私は大学に入るまで誰かとラジオ談義をしたことが一度もなかった。しかし、唯一それができるのが今の友人である。その人に、私が初めてラジオを聴くようになってからずっと抱いていた一つの思いをぶつけた。
 「色々なものがなくなっていく世の中だけれど、ラジオは五十年後もあると思う?」その人は答えた。「形は変われど、ラジオが無くなることはないと思う。」同感だった。五十年後もラジオを聴いていような、と照れながら私は答えた。
 ラジオの向こう側では、早朝から夜中までニュースの達人、音楽の達人といったその道のスペシャリストが耳元で語りかけてくれる。これほど濃密で贅沢な体験ができることも、私がラジオから離れられない要因である。
 世の中がどれほど変わってゆこうが、ラジオは変わらない。時代に流されない確固たる強さであと五十年、百年後もずっと人々の生活に寄り添ってくれる存在であれと強く願う。