書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

ツイッターを倒せるのはブログだけ。

 

2019年に入りツイートをやめた。2018年はバカみたいにツイートをしていた。ふと思った気の利いたこと、日常の気づき、良いことがあったとき。拡散されることを前提にしている訳でなく、ただただ自分の欲望を垂れ流ししているだけの空間。他人の欲望もまた同様に滝のように放出されつづけている。滝ならまだいい。修行の滝なら。だけど実際は何も磨かれていないし、言っても軽くまつげが湿るくらいのものだ。有っても無くてもどっちでもいいものだ。それだけのために三十分、一時間がかんたんに空費されていく。ああなんとむなしいことか。昨日ツイートを確認したのに、翌日になればその他人の昨日の状況が思い出せない。一日で忘れるようなカルイカルイ内容。中身のないもの。情感の滝に打たれ時間を貪る魔物。時間だけではない。心も揺さぶられる。感動ならまだいいかもしれないが、それが他人の誹謗中傷なら、ああ見なければよかったという後悔だけが残る。そして、何より厄介なのがどうでもいいことに限って、心が悪い方へ揺さぶられ染まっていって戻らないことだ。忘れようとしてももう遅い。人には意図的に何かを忘れるという能力が備わっていない。忘れようとすればするほど、かえって記憶の結びつきが強固になっていく。それが他人のすべてを覗き見るということの代償なのだ。人と比べて、人に比べられて、あの人よりは勝っていると思い込んで、一喜一憂。喜んだり憂えんだりしてそのときは良くても、最後には疲れるだけ。他人を覗き見ることは、どこかで他人を見下したいと思っていて、そのチャンスを常に伺っていることの現れなのだ。現実社会のほうが気が楽だ。顔が知れている人だけを相手にしておればいいのだから。ちょっとの人間関係のヒビくらいいくらでも取り返せる。リアルな人との交流の場面において挽回のチャンスはいくらでもあるし、また壊れた絆がより強く結ばれることもある。ネット空間ではそれが難しい。ネット空間で一度壊れた絆をふたたび同じネット空間で修復など、やっぱり至難の業だ。リアルと比べて、挽回材料が文字と映像くらいしかない。そこには実体がない。いとも簡単に嘘をつくことができるという無法地帯で特殊な空間は、言葉の価値を、人間としての価値を著しく低下させ得る。その特殊な空間にいながら、よりリアルを写した、魂の叫びが実体化したような生命の灯火は、もはや書き手の分身といえよう。消化されゆくニセの短文より、沈殿されゆく真実の長文を。その思いが消えないから、私はブログをやめないのであって、取り憑かれているのだ。ひらがなも、カタカナも、漢字も、造語も全部好きだ。言葉の力をやっぱり、いつまでも、信じていたいのだ。わたしは。