書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

銭湯で中年を感じる瞬間

 

 スーパー銭湯の五右衛門風呂でくつろいでいたとき、となりの五右衛門風呂にまだ小学生にも満たない小さな男の子が入ってきた。僕ら中年(読者もご存知の通り筆者は決して中年ではない、中年を感じるというのはそういう哀愁漂う表現方法の一種なのだ、むしろ中年を感じると言っている時点で中年でないことは明白である)が風呂に入るということは、少なくとも、日頃の疲れを落とすためという明確かつ打算的な目的が存在する。しかし、彼らのようなまだ前途ある若い子供たちは風呂に入浴するということをどのように解釈しているのだろうか。

 そもそもこのようなことを考えるきっかけは、私の隣りの湯船に入りにきた子供がテンションタカメに駆けて来たからである。そのとき私は、ああ、この子達は決して疲れを落とすために入浴しているのではないのだ。入浴という行為そのものを楽しんでいるのだ。でなければ、私の隣の五右衛門風呂が空いた瞬間に一目散に駆けてくるはずがないし、入浴中に水面をピシャピシャと叩くはずがないのである。彼らにとって、入浴とは遊びなのだ。彼らの表情を見ている限り、少なくとも、疲れをとるために風呂を利用しているのではないということは明白である。


今日、トシをとったなと思う瞬間がまた一つふえた。いつまでも童心をもった大人でありたいものだと、のぼせた頭に思い浮かべながら、ふやけた拳を力無げに水中で握りしめるのであった。