書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

何も考えないことの難しさについて

 

 

 あなたの過ごす一日の中に、何も考えない時間はどのくらいあるだろうか?ちなみに私は皆無といっていい。自信をもって胸をはってそう言える。


 きっかけは2日前。仕事中であったが比較的暇だったので、意図的に何も考えないように思考を巡らせてみた。だがその後激しく後悔した。それはかなり辛い時間であることが分かったのだ。なんとかして何も考えないことに近しい状況を一応作り出せはしたのだが、凡人の私には「何も考えないということを考えてしまう」のがやっとだった。それも1〜2分が限界だった。


 個人差あると思うが、何も考えないコツとしては、目を薄目に開けとにかくボーッとする。これに尽きると思っている。何も考えない時間は本当に辛く、その間は自分が生きている心地すらしなかった。自分が今二本足で立っていることも、目を開けてモノを見ている事もどうでもよくなるし、二の次になった。外部からの情報、過去の記憶、今後の不安その他諸々が一時的に心の中から消える感じだ。これを極限の極限まで突き詰めた、当時のお釈迦様は本当にすごいなということを考えた。感心してる場合か。また無駄なことを考えているではないか。


 何も考えないようにする地獄の時間が終われば、すぐまたいつもの邪念巡りである。あれが欲しいとか、冬のボーナスいくらだろうとか、あのときあの人に言われた言葉について反芻したり、今日は定時に帰れるのだろうかとか、今日の夕食どうしようとか。愛すべき邪念の数々である。今考えてそれらを文字にするだけでウンザリだ。ただただ不毛。なんと時間のムダ使いだろうか。


 もう十分に結論が出ているような、ありふれたことに頭を使うくらいなら、頭を少し休ませ、なるべく何も考えないように仕向けるほうが、長い人生を送るうえでも有効なのかもしれない。いつも通りの邪念に包みこまれているより、せめて「何も考えないことについて考えてしまっている時間」のほうがよっぽど有意義ではないか。


 人間が一日に判断できる量は数千と言われている。だが人は数秒に一回、何事かを考えていると言われている。それに追討ちをかけるような情報過多。一生分の時間を消費するのにも有り余る十分過ぎる情報が目の前にある。娯楽の域を完全に超えている。そして、さらなる追討ちコロナ。そりゃ人間、ネジも外れ怒りっぽくもなる。いつもと違う行動をとる。

 コロナと人間もそうだが、スマホと人間も、本来突き合わせてはいけない存在なのだ。何事かを考えるから、妙な事件もふえるのだ。鬼滅の刃で底なしの感動を求めたくもなるのだ。まぁこっちのほうは正常な反応なのだろうけれども。


 無意識に邪念の奴隷になるくらいなら、意識的に何も考えないほうがよっぽど人間らしい。ということで。邪念断捨離もたまには必要だよねというお話。まずは1分、やってみる。