書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

スマホなんて、ちょっと失くすくらいがちょうどいい。

 

 朝のはじまりは、スマホチェックから。それが日常の無意識の動作となっているのなら、恐ろしいことだ。空腹を感じるよりも、寒さを感じるよりも、歯を磨くよりも優先されること。無意識におこなうことであるほど優先順位の高いことではないはずだ。もっとやるべきことがたくさんあるというのに。無意識の習慣にはもっと他のことを取り入れたい。知識の増幅や、感受性の向上が良い。幅広いジャンルの読書、花屋に立ち寄り季節の移ろいを生命から感じとること。小さな電子端末の些末な情報など本来二の次である。スマホは無限の可能性を秘めてはいる。自分の知りたいことが無限に存在するからだ。常にフルコース料理が目の前にあってそれを食べているようなものだ。ただそれは、独創的な人間という生き物にとって、相応しい環境であるとはとても言えないだろう。人はどうなってしまうか。人は自分の頭で思考することを止めてしまうだろう。当然の結果である。

 次の段階として、もう我々はロボットか何かになるしかない。いや人間の場合は自我がわずかに残っているから、その点ロボットよりも扱いづらく厄介かもしれない。スマホの過剰依存とは、人間の根底がゆらぐ非常事態である。だから私は日々、なんとかしてロボット以下の人間に成り果てぬよう、意識的にスマホ断ちを敢行しているのである。例えば。スマホをちょっとでいいから、わざと紛失してみるのだ。靴箱の一番上の棚、夏物のタンスの奥に紛れ込ませて。そう、我々はここまでしなければならない。少なくとも無意識的にスマホ操作することのないように。もはやこれはスマートフォンではない。今やこの手のひらの文明の利器は、重要な人生の時間や機会を奪う危険物である。より一層、我々は危険物取扱者のような危機的意識をもって向き合わなければならないだろう。

 

通勤中もだらだら 片手に吊り革、片手にスマホ

食事中もだらだら 片手にお箸、片手にスマホ

会話中もだらだら 片手に充電器、片手にスマホ

 

ああ、この憎き黒塊をどこか遠くへぶん投げられたなら どれほど清々しいことか

多くの人はスマホなど本来いじっている場合なのではないのである

ココロココニアラズ 目の前のことに集中せよ と言われなければ そうできない生き物 悲しき生き物