書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

さきさき予測するわれわれ ー本当に大事なものを予測しないわれわれー

 
 
一昔前に生きた時代の人々は、今の我々を見て何を思うだろうか。当時から見れば、我々は未来人ということになるだろう。その所謂「未来人」が、まさか少し先の未来を予測するという意味の「未来人」になるとは誰も想像すらつかなかったであろう。それが結果的に、文字通り「未来に生きる人」から「未来にしか生きられない人」となり果ててしまったのは皮肉なことだ。
 

現代における天気や贈り物の話 

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 朝、会社や学校に行く。天気予報を見なければ外に出られない。在庫があることを確認しないと、電気屋に出向かない。ポイント5倍じゃないとその店で買い物をしない。「予めメリットが分かっていないと行動に移せない病」にでもかかっているのか。特にそれは、他人にプレゼントを渡すシチュエーションにおいて如実に現れる。自分が買うものならまだしも、他人に買って差し上げるプレゼントである。余計に失敗したくないという思いは強くなる。今後の人間関係にも影響する可能性も無きにしもあらずである。絶対に失敗したくないから、徹底的にリサーチ。ネットサーフィン。本人の趣味嗜好よりも、インターネットにおいて同年代の好みを完璧に探り当てる。肝心の、プレゼントを受け取る張本人のことについてはあまり存じ上げない。多数派がインターネットで情報収集するものだから、みんな似通ったプレゼントになる。結局そのプレゼントは、なにも「あなた」がわざわざその人に贈って差し上げる必要性の無いプレゼントとなってしまった。
 
 例えば、マグカップを例に挙げてみる。どの場所でも使われる贈り物の定番品だ。だが無印良品やニトリのそれだとあまりに品が無いから、今流行りのアーティストがデザインしたマグカップなんかを選択してみる。マグカップの形状そのものは極めて月並みだけれど、デザインがスゴク先進的。結局尖ったそのデザインのせいで日常使いには向かず、挙げ句のはて、プレゼントを受け取った張本人側は、くれるのならもっと普通のマグカップでよかったのにと嘆く。   
 
 
 

未来に生き、未来しか見てない我々、未来人

 

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 先回りし未来を予測することは、現代のもっともらしい人々の思考を集約することに過ぎない。先回りし未来を予測することは行動者からすれば、全力の準備なのかもしれないが、それが全てではない場合がある。目の前にいるのに相手を見ようともしない。相手を知った風でいるだけに過ぎない。それなのに「無難」で凝り固めようとする。初めて出会った関係でもありゃせんのに。
 
 失敗をしたくないという思いは、未来を予測し危険を回避するという思考につながった。自分より優秀と(おもわれる)AIにすべて選ばせよう。全知全能の第三者の言葉に耳を傾けよう。Aを望めば、Aだけくれたらいい。Bはこういうもので、Cという選択もこういう場合は可能なのですよ等という提案もいらない。答えだけ欲しい。急転直下で即物主義に慣れ切ってしまった現代人たち。
 
 未来を予測したはずが、万が一その予測が実現されなかったとき という新たなストレスシーンも増えたと感じる。ただし、この場合感じるストレスは相当なものだ。分かりやすいのが、天気予報。今日は雨は降らないと言っていたのに。我々は天気予報が外れたとき、天気に対して怒るのではなく、天気予報に対して怒りの矛先を向ける。いや、そうかと言って直接天候に怒りを差し向けるバカもいないのだが。
 
 今度は、先程のプレゼントの話を思い出してほしい。プレゼントを渡したときに相手が気に入ってくれなかったとき、人はインターネットに対して怒るであろうか。そんなはずは無い。天気予報のお話と同様である。先述したが、天気予報が外れたとき天候を恨まず、天気予報を恨む。二つの事象は共通事項ではあるのだけれど、なんだかどこか、心眼を傾けるべき対象を見誤っているような気がしてならない。
 
 
 

過去を捨て駒にしない生き方

 

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 その昔、天気予報など存在しなかった時代。先人たちは、前日の雲や星の様子ひとつで翌日の天候を言い当てたという。いまや完全にシステム化された天気予報の時代の中で、そのような知恵を残している人間は一体どれほどいるだろうか。先人たちの強みは、そのシステムを各自の頭の中にもっていたという事実だ。だが、現代ほど正確な代物と言える訳ではなかった。その場合であっても、検証と実験を繰り返し、能力の鍛錬に勤しむことができた。
 
 「べんりなもの」の最も恐ろしい点は、いったん使用すると、使用者が何も考えようとしなくなる点にある。一切の思考をパスしてしまうのだ。蛇口ひと捻りで水が出る時代に、わざわざ井戸を探して水を汲みに行く人はいない。
 
 「さきさき予測するわれわれ」は、目覚ましいほどの便利さと生活のしやすさを獲得した。その結果長生きもできるし、いろいろと考えなくて済む。煩わしさから解放されたのだ。だがどこか便利さ至上主義に慣れ過ぎていないだろうか。効率的な生活は、効率的な人生に過ぎない。効率的な人生ほど虚無なものはない。それこそロボットである。目の前の声に耳を傾けなければ見えないことがある。膨大な数の安心できるデータ?インターネットは間違いない? 安心というより気休めではないか。人間皆が皆、平均的にできてない。統計学は統計学に過ぎない。たかが統計、たかが学問。相手の目を見て考えてこそ、新しい何かが生まれてくるのだ。本当に大事なものは、一方的に予測するのではなく、共に考え、そのときに初めて生み出されるものなのである。