書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

僕は、ブログでは極論を言います。

 

これは、今に始まったことではない。
毎回ブログの投稿ボタンを押し終わると、プチ自責の念に駆られている。

 

“ 今回もとんでもねぇ極論だなw ”
“ 締めくくりの一文くらい、さらっとしておくか “  ということの繰り返しである。

 

リアルコミュニケーションでは人を傷つけてはいけない。その人と今後も関係を築き上げ続けていきたい間柄であるなら、なおさらである。

だから、最初は様子見でしゃべる。もちろん私の性格上、何かにつけてふざけずには、いられないのだけれど。

 

相手の新鮮な反応が楽しい。私は普段のその人が出しなれているなぁ、というリアクションをわざわざ引き出したくはない。突拍子もないことを「あえて」言ってみることで、新たな一面をおびき出したくなるのだ。

 

だって、その人がする「いつもの仕草」なんて、なんの面白味も特別感もない。だが、一対一の会話ならまだ、私のいき過ぎた失敗も取り返せるが、それが複数人の場合、急に空気というものが出現する。

 

島国人特有のその場全体の「和」の雰囲気である。そうなればさすがに、空気を読まなければならなくなる。そう追い込まれる。これまでの義務教育の賜物のせいだ。

 

だから複数人になると、私も少々大人しくならざるを得ない。その反動で、ネットでくらい言いたいことを言わせろという思考回路になる。

極論をいうと、大きめな反応を期待してしまう。また感性むき出しな分、ブログタイトルも映える、というものだ。

 

「○○は絶対△△だ」

「○○は△△だと思う」 

 

絶対と銘打つからには、そのブロガーは相当な自信があるのだろう。思う調よりも絶対調のほうが妙に気になる。どれ読んでやるか、という読者の挑戦心を煽る。

 

これが現実世界で「絶対」なんて使おうものなら、「きみあのとき言ってたこと間違ってたよ」と後々訂正されるかもしれないという、スリル爆弾を所持し続けなければならないのだ。それは鬱陶しいことだ。その相手との信用問題に関わるかもしれない。

 

反対に、ネット空間に限ってはわざわざ正論を言う意味は無いと思う。

リアルでは人柄が重要で、ネットはアイデンティティを発揮する場所だ

正論なんて唱え続けても「なんだ常識人か」と思われて終わるだけだ

 

私はリアルより広大なネットにおいて、わざわざ発信する「正論」に価値を見いだせない

やはり私は極論ブログの方が向いている
極論も言い続けると、いずれ正論に変わる

 

ただし、その場合の正論とは、
「世間的な」という意味ではなく、「自分の言いたいことをすべて言えているかどうか」という物差しのうえ成り立つものだと考えている