今週のお題「ホワイトデー」
私が、ある一人の女の子に送る、と(妄想)する。
ゴディバがナンバー・ワンという風潮
私が学生の頃なんかは、「ゴディバをもらった」なんて聞くとヒェ~と血の気が引くほどであった。しかし今では、カジュアルにCMや新聞広告も展開されており、ゴディバ社の攻めの姿勢が見られる。
もっと雲の上の存在だったが、今では貰っても「ちょっと喜ぶ」くらいの存在に成り下がったような気がする。
さらに言えば、ゴディバが一般化しすぎて、もらった女の子からすれば逆に「手抜き」と思われるのではないかという疑念も生じている。男からすればゴディバをもらった女子は、100%喜ぶと過信しているからだ。
男「心の声(あの子にはこれ渡して黙らせておこう)」
女「ゴディバで私が大喜びするとでも思った?ザンネン!」
そこで私が編み出した(妄想した)のが、あえての手作りがいいかなぁと思う。
明治でも森永でもガーナでもなんでもいい。
板チョコを溶かして、隠し味もたんまり入れて。オリジナリティの全部盛りでいこう。抹茶パウダー、カットマンゴー、ハッピーターン。彼女を精一杯楽しませよう!
しかしここまでして尚、こう思われてしまうかもしれない。
女の子「手作りでがんばったアピール?ゴクロウサン!(つん)」
冷たい女のコの妄想ばかりは疲れるし、傷つくよ...
僕の妄想に出てくる女のコは往々にして、高嶺の花子さんなのだ...
一組の熟年夫婦をモデルに考察する
お互いに年齢を重ねるごとに、男性から女性へゴディバをあげるというシチュエーションで見ていく。リアクションにどのような変化があるのか考察する。
個人的に中学生カップルなど認めていないので、あくまでハイスクールから攻める。
熟年夫婦→高校時代
男「これ、ホワイトデーのお返しです」
(金の包みのゴディバを手渡しで)
女「えーーー!高かったでしょう!これ!」
男「まぁね、照れ」
女「ありがとう!!」
ー翌朝、学校でー
さらに再度お礼を言ってもらえる
女「○○くん、昨日もらったチョコおいしかったよ!高いチョコってやっぱり味も美味しいんだね!♡」
男「それは、よかった ^ ^」
熟年夫婦→大学時代
男「これ、ホワイトデーのお返しだぜ」
(金の包みのゴディバを手渡しで)
女「わ、ゴディバやん」
男「そうやで ^ ^」
女「ふだん友達からもらうことあるし、本当に食べたいときは自分で買ってるんだよね...」
男「え?でもゴディバだよ??」
女「ゴディバ渡せば、何でもいいと思ってる?」
男「いや、そういうことじゃないんだけど汗」
(謎のナレーション)この男性にとって、この年のホワイトデーは決して甘くない思い出となった。
熟年夫婦→熟年時代(つまり現在)
おじ「これ、ホワイトデーのお返しだ」
(金の包みのゴディバを手渡しで)
おば「あらまっ。これゴディバですか?」
おじ「せやで ^ ^」
おば「ちょっとあんたァ!!」
おじ「え?は、ははい?汗」
おば「子どもの分わーーーっ!」
おじ「いや、お前の分だけだけど(苦笑)」
おば「子どもがズルいお母さんだけとか言ってきたら、どうすんのよ!!! それなら安いチョコでもいいから家族全員分買ってくるか、チョコなんてハナっから要らないわよ!!」
おじ「そ、そんな....」
おば「それに、いつまでホワイトデーなんて引きずってるのよ!あんた、もうそんな若くないのよ? みっともないと思わないの?」
おじ「いや、若さ関係ないと思いますけど...(敬語&小声)」
最後に
以上のようなことが容易に想像できちゃうわけですね。
つまり私が何を言いたいかというと、
高校時代に送るゴディバに勝るインパクトは、人生において他にないということです。
年齢を重ねるごとに、青春の記憶が薄れるごとに、その分、大人としてやらなければならないこと=大人の事情が増えていきますから。
青春まっさかり+ゴディバは大人の特権という憧れ+少ないお小遣いで買うゴディバの希少性+いいもの食べたという優越感
こういった条件すべて揃う高校時代が、ベストタイミングだということです。
それでは、改めてタイトルを復唱しますね。
ゴディバは一生に一度でいいのです。むしろ十分なのです。
くれぐれも「金の包み」は用法用量を守って、正しい使用法でお使いくださいませ。