書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

非・無駄な判断のススメ

 

 スーパーで1週間分の食材を買い込むとき、甘味コーナーを見ないようにする。視界に入れるだけで人は迷ってしまうからだ。あげくの果てに意図せず購入に至れば「買わされてしまった」という後悔だけが残り、軽い自暴自棄に陥る。たとえ買わなかったとしても「無駄な判断をしてしまった」という後悔が結局残る。すべきことを予め決めておいて、それを実行することだけに尽力すれば、無駄な労力もそれに伴うストレスもなくなるはずだ。

 

 仕事中も同じ。誰かの会話が後方で聞こえる。ほとんどは自分には全く関係のないことだ。他所の部署が各々の仕事をただ遂行しているだけなのだから。だが聴覚情報は不可抗力である。もういっそ耳にもマスクを掛けてやろうか。そんなときがある。耳は感知しうる情報のすべてを拾いあげてしまう。完全に遮断することができない。ならばどうするか。せめて頭で考えることをやめればよいのだ。といっても全く考えないということも人間である以上難しいことだから、脳の奥まで入れてしまわないような感覚をもつとよい。

 

 脳の奥まで入れる感覚とは、後ろのAさんはこう言ってるけれど、横のBさんの言い分のほうが正しいと思うなぁといった、自分まで第三者論議に入るような妄想行為をしてしまうことだ。もちろんそのとき自分はヒマじゃない。同じく仕事中だ。そんなときの脳は、スマホでいうマルチタスク状態となり脳はより発熱していることだろう。

 

 面白いことに、人間が一日に判断できる上限数は9000程と言われることもある。それを知った日から私は少々、判断に関してうるさくなった。判断という行為は無限にできるわけではないのだ。我々は本来、ほんとうに判断すべきときに判断すれば十分なのだ。判断を求められないときはムリに干渉しなくてよい。

 

判断外のものは一瞥すらしない。

ふーむ、これが大人の余裕というやつなのです。