書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

なぜ人は断捨離ばかりでモノを買わなくなったのか?

 

 

あらゆる欲がとまる

 これは「お金を使ってまで買いたいものがない」とも言い換えられる。そもそも私達の生活は冷蔵庫、掃除機、洗濯機、テレビといった耐久消費財でおおよそ成り立っている。その耐久消費財に人間の基本的な「衣・食・住」が加わることで、もう最低限の生活が保証されたといっても過言ではない。

 ただ、ある程度の「無駄」も人には必要だ。それが昨今では時代柄、趣味や、はたまた生業にすら転じてしまうという可能性を秘めている。人間の脳は、生涯に約10%しか使用されないという説をみても、残りの90%は眠らせているわけだから、無駄を求めしまう性質というのも、納得がいかないことはない。

 人間は利口で、合理的な生き物。いろいろなものを買わなくなると、物欲もそれに合わせるかのように自然と落ち着いてくる。「何かを欲する」という感情がすこしずつ減少していく。物が無くても生きていけるということを知ってしまう。その上、不買は経済的だ。この段階でも自分たちにとって都合の良い条件が豊富にある。

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 ネット通販で買うときは、商品レビューを見て買う人は多いと思う。私は新しい通販サイトに会員登録するときは必ず、レビュー欄が設けられているか?設けられている場合はレビューが盛んに投稿されているか?の二点を非常に気にする。

 お金を頑なに守り、消費自体に喜びを感じなくなりつつある私達は、守られたお金で起きる「失敗」も好ましくない事と考える。最低限のモノで生きられることを知る→モノを買わなくなる→欲がなくなる→失敗したくないという感情の連鎖である。

 以上のことが、世の中を買いモノから断捨離へシフトさせている要因ではないかと想像する。結果モノにとらわれなくなったことで、時間という価値にも目を向けられる余裕ができた。

 

有限な人生における最重要問題

 自分の人生が限られたものである、という再認識の念を強めるようになった。モノに興味がなくなったことで、引き換えに面白い現象が起きた。目に見えないことに熱中するようになったのだ。

 モノから、時間や体験へ人々の興味が移る。体験には物事のやりがい、生きがいも含まれる。モノはいずれガタが来るが、経験の記憶は生きている限り、自分の脳に留まり続ける要素であり、いつ何時でもふりかえることが可能だ。

 自分のやりがいを信じてフリーランス転向、新たな体験を求めて各地へ旅をしSNSへ投稿したり、体験型施設の入場者数が年々増加したり。

 みんな、自分に嘘をつかず生きたいように生きていく、この純粋さに気づいたのかもしれない。 自分の人生にお金や時間をいくら注いだか?そういうことで「人の器」が計れなくなった。年収、年齢、役職などまったく意味を為さない。

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 ただモノを捨てたり、欲を断ち切るだけではない。物事の本質を見極める行為ともいえる「断捨離」は自分の人生を感情的、時間的に何倍も高められる方法である。流行の一言で片付けられるようなことでは決してない。

 死ぬ間際にどんな言葉が思い浮かぶか。最期の一瞬まで笑顔でいるには、人生のうちに、脳がやりたいことを思いついた順番に、こなしていくだけでは遅いのかもしれない。

 いま嫌いなことも、好きなことも最後にどう転ぶかは諦めるまで分からない。自分がやりたいこと、やりたくなり得ることを少し先回りして行動に移し、やっと気持ちが追いつく。そのくらいで丁度いいのかもしれない。目に見えないものこそ、人生を豊かにするのだから。