書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

「駄文」という言葉がきらい

 

 

この世に駄文なんて存在しないと思っているから。

 

たとえ本当にそれがいわゆる駄文であったとしても、頭に思い浮かんだ「それ」は紛れもない事実であるから。すべてが発生前に否定されるというのは、人に一切のやる気を起こさせなくさせる。無気力になる。バイタリティを奪われる。そのうち何も考えなくなり、そのうち本当に考えることを止めてしまうだろう。それは日々を生きる人間にとって、とてもとても恐ろしいことだ。断じて拡大解釈なんかではない。僕は可能性の話を言っているのだ。一つ一つ自分がそれを掬い上げてなくてはどうするのだ。自分は最後の味方であるというのに。特にあなたが、ブロガーやツイッタラーなどの表現者であるなら尚更である。思いつきのすべてを使い捨て同然、消耗品同然で扱っているようなら、いずれアイデアも尽きてくるだろう。これは必然だ。私は不器用だから、それを披露する場はこのブログという空間しかもたない。だが毎日がとても刺激的だ。それこそ、毎日脳に栄養を惜しみなく注入している感じだ。もちろん誰かの文章を見にいったりもする。人それぞれの人生が「今日」という枠組みに収まっているのを感じるだけで僕の心はとても安心する。駄文を否定することは、自分を否定すること。だからなるべく駄文なんて表現はしたくないな。こういうとこも含めて、ボクって不器用なんだなぁと思う。