第二の生活拠点といわんばかりに毎週のように足を運んでいたカフェ。人生を充実させる活動、カフェ活と称し正当化していた。カフェじゃなきゃブログが書けない、手帳が書けない、本が読めない、勉強が進まない。いろんな口実をつけてきたが、昨今の自粛期間生活の中で気づいたことが一つある。
あれ、家でもちゃんと集中できてるじゃん。
月3000円の出費はなんだったのだ。
月3000円のカフェ代って高すぎるな。
月3000円あれば何ができるだろう。
今やカフェを外から眺めることが多くなった。
「きょうもおじいちゃん、おばあちゃんが大勢いるなぁ」
眺めるというより、ほぼ視界に入り視覚情報として訴えかえてくるだけである。
外の世界からみる元いた世界。外界から自分の元いた居場所を眺めるのは、どこか人間的に成長したような錯覚をおぼえた。
月2で行っていたカラオケ。カラオケボックスなど行かなくとも、人間やっていける。どうしても歌いたくなったら、歌いたいと思う前に自然と口をついて鼻歌になっているものだ。
月1で行っていた銭湯。
月2で行っていたパン屋。
月2で行っていたユニクロ。
すべて過去の遺物だ。
その気になれば、人間なんでもできる。
上記以外で流石に難しいのが、散髪だ。一人で髪を切る器用さは無いので、専門業者に依頼する。物理的、技術的に不可能なものだけ他人に任せる、なんとも合理的な生き方である。我々の消費活動、生活行為は案外もっと限定的になったとしても生きていけることが証明された。
人は想像以上に強い生き物なのかもしれない。今までは、全てを与えてくれる環境にただ甘んじ、ただのうのうと身を委ねてきただけに過ぎないのだ。
「自粛」から「自宿」へ。他者依存から解き放たれるようになるまで、そう時間はかからない。
自身が主体である限り、内にいようが、外にいようが、「自分が」何かを生み作り上げる。この事実に変わりはない。
自分をもつこと。そのためには、ゆっくり自分と向き合う時間も必要であるし、ここまでくればもはや自粛ではない。日々己と向き合う訓練をしているようなものだ。