書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

夕方5時になると電源が切れます

定時間際の5時、私の思考は考えることを放棄する。ここからの残り数分間ですることといえば、翌日の準備くらいだ。今はこんな私でも当初は定時に帰ることを罪だと思っていた。周りの目が後ろめたいからだ。今でもその気持が完全に拭い去ったわけではないが、すこしは和らいでいる。目の前で上司がクレーム対応していようが、となりでゴミ箱がひっくり返っていようが関係ない。時間だ。むしろ定時に帰ることは、自分へのご褒美のようものになっている。スパッと自分の時間をすぐ開始していいという、この上ない、人生の時間の使い方に直結する程のご褒美なのだ。残業しろとも言われてはいけない。他人が踏み入ることのできない、自分だけの支配下=時空間である。後ろめたいと思う人は、電源が切れたみたいなモチベーションになればいいと思う。どうにもこうにも仕事ができないんじゃ、残業などしても無意味に終わるだけである。今後何十年と働き続けるために必要なのは、「無理をすること」でも「スピード」でもない。ずっと同じペースによるまさに「平常運転」が必要なのだ。

僕が走る意味

今年の2月から「走る」僕

小鳥が自分の翼の存在を自覚しだすように。

僕は今、僕の足に可能性を感じている。

 

それは「食べる」「書く」「笑う」につづく重要な動詞だ。だから「走る」を定義するのは大変だ。

 

走るとは、

判断力と自己肯定感の向上であり、健康のバロメーターであり、体とのコミュニケーション手段でもある。そしてただ単に「本能で走る」ときもある。

 

走る意味を考えることは、書く意味を考えるのと同じくらい、底なし沼な問題だ。

 

いずれにせよ僕はその答えがわかるまでは少なくとも、走ることを止めないであろう。

嫌われているという自覚のない残念な人

嫌いな人、とうぜんいますよね。

なぜかどの職場にもいます。

最初はそうは思ってなかった人も、突然沸いて出てくることもあります。

でも最近気づいたことがあります。僕と年の離れた人に嫌いな人が多くて、同年代のアラサーさんたちにはむしろ好きな人が多いことに気づきました。

 

たぶんそれは目上の人が高圧的なのに対して、同年代の人は比較的温厚だからなのだと思います。それだけじゃなく、常識も同年代の人のほうが持ち合わせていると感じるときがあります。

目上の人こそ、思慮分別が足りてなく、思いやりがないなぁと思ってしまいます。

最初からこっちの責任だと決めつけてくる。それでいて自分の失敗には平気で目をつむる。自分がいちばん可愛いと思ってる。心だけ成長していなくて随分幼稚です。

 

もう、僕は仕事をしたいだけなんです!

はぁ、スッキリした!

いつも笑ってくれる人がそばにいるということ

かれこれ8年以上そばにいる人がいる。とても大事な人だ、と言葉に表してもどこか安っぽい。大事なことはかえって言葉にしないほうがいい。ムーミンも言っていたことだ。しかし、そこに間違いなくある事実というのは、長年連れ添ってくれているということ。その事実は誰も否定しようがない。そしてたとえ誰かが否定してみたところでなんの効力もない。当時言っていたことに対し、反応をくれる又は笑ってくれる。そして今も変わらず笑ってくれる。何よりすごいことだ。まるで魔法の合言葉のように。それはどれほど月日が流れていようと効果が薄れることはない。相性がいい、と言えばそれまでになってしまうし、やはりここでもムーミンの言葉を思い出さないわけにいかない。奇跡とも違う、運命とも違う、心のもやもやが。言葉にならないものこそ美しいのだと思う。言葉によって魔法の封印は解かれてしまう。温かいものをただ胸に抱きしめる。それでいいんだと思う。あえて名付ける必要はきっとないのだ。

ルーティーンをぶっ壊す

 最近、ルーティンをぶっ壊すことにハマっている。たとえば、帰り道のルート変更であったり。いつもと違う銘柄のヨーグルトを買ってみたり。いつもクレカで支払うところを現金で支払ってみたり。

 

 細かにルーティンをぶっ壊すことは、なかなかの達成感があることに気づいた。逆に、いかに日々がルーティンに支配されているかが分かった。脳は一度決まった最適解を見つけると、いちいち働かせることをしない。

 

 一度乗り方を覚えた自転車を毎回忘れて毎回思い出すのは大変なのだ。脳のどこかの部位がそれを担っているらしい。

 

 いわば、ドラクエでいうMPを消費しない、格闘家の格闘技のようなものだ。MPを消費しないで良いのならそりゃそちらを選択するというわけだ。

 

 だから、僕のやってることは脳をいちから叩き直すことに等しい。甘やかさないぞ。だって、まだまだ長年働いてもらわにゃいかんので。