書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

あした世界が終わるとしたら

 

 小さい頃、毎日のように考えていた、非現実的で恐怖的で楽観的でちょっぴり楽しい破滅的妄想。大人になった今、生ぬるい現実にすっかり馴れきってしまった私は、それについて頭を掠めることすらなくなった。ずいぶん歳をとったと思う。新鮮な感情がすり減っていくぶん、より一層、新しいことを始めていかなければならないのに。

 そんな義務感でしか何事も行動に起こせない。これも老化現象の一歩なのである。破滅的妄想をすればするほど現実が恋しくなる。自分が好きになる。やっぱり今のままがいいという気持ちにさせる。

 ある話で、家族もちの母親が一ヶ月に一度だけ、家族の誰にも行き先を伝えず外泊することをルーティンとしている話を聞いた。その母親曰く、たまに無性にどこの誰でもない人になりたくなる。ホテルのチェックインでは偽名を使うし、その間は現実のことなど一切考えない。当然彼女は家族嫌いという訳でもない。そういう、どこの誰でもなくなる時間が彼女の人生においては必要だということだ。それが結婚の条件の一つでもあったらしい。

 いつから我々は『自分』として生きていくことを選択したのだろうか。誰のもとで承認され、その記録はどこにあるのか。一生のうちの最高難度の選択を無責任なことに我々は無意識のうちにやってしまっている。そして無意識のうちに受け入れている。明日も明後日も50年後も不変である。それは、この世でもっとも理不尽で唐突で残酷な選択だ。

あした世界が終わるとしたらどこの誰でもなくなってみるか。それはさぞ楽しい事にちがいない。