書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

アウトプットのない人生なんて。

 

アウトプットが仕事の報告書や稟議書だなんてつまらない。家に帰り、顔がほころぶ瞬間、目の前にパソコンがある。ひたすら、空白のスペースに書き進めていく。朝に行うとより贅沢している気がする。朝は惰眠を貪るのを最上級の贅沢としているなら、勿体無い話だ。指を動かし、文字を認知し、入力していくうちに自然に目が覚めていく。時たま口の中で呟いてみたり。朝の暗がりから、朝日が顔を出す瞬間。完全な一日の始まりを迎える。良い一日が始まりそうな気にもなる。外へ出ると通勤中のバス、電車、歩道。いつからか人は下を向いて、歩くようになった。スマートフォンに夢中になる。今こそ、上を向いて歩こうが流行るべきときだ。外に出ても、自分の部屋との境界がないことを意味する。どこでも、自分の好きなことをしていられる、触れていられる。ますますパーソナルな世になった。人々のインプットという行為に、余計に拍車をかける結果を生む。インプットは楽だ。発信しなくていいし、発信して傷つくリスクを恐れる必要もない。アウトプットは、人生において必要事項ではない。自分が、自分が、と前のめりになる類のものでないからだ。自分がやらなくても、誰かがやってくれる。しかも知識も、表現も、経験も数段上回っている。自分がわざわざ苦労をして、わざわざ発信する必要性はますます無くなる。しかし、残されたのは何だ。最後に残るものはなんだ。そんな状況など関係ない。自分が発信したいから発信するのだ。強く言い切れるものがあるか。少なくとも私は、いま考えていることが常に最高のものだという自信がある。もちろん何の根拠もない。良いこととは、自分にとって良いこと。発信したいことは、誰かのためというより、自分のために書いてきたから、私は今日まで積極的にブログに携われてきたのだと思う。元々、文章を書くのも読むのも好きだった。書くを、発信するという表現方法に変え、歴史的転換点を迎え少々経つ。可能性を模索しながら、泥道も茨道も好き勝手転がり落ちつづけていきたい。アウトプットのない人生なんて。いやだ。