書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

我々に元気がないのは、色々なことに気を取られすぎているからだ。

 

自分が何かしている状態のことを考えてほしい。何かを為しているのに、どこか無気力ではないか。目の前のことすら儘ならない。心ここにあらず。これが何かしているのに、本質的には何もしていない状態である。一番の問題だ。歩くという日常行為を一つとっても、しっかりと地に足をつけ、一歩一歩を指の先まで噛みしめられている者はどれ程いるだろうか。注意を引きつけるだけの雑多で無意味な目くらましがすぐに邪魔をする。本当に重要といえる存在が無い。目の前の食事でさえ、まともに実行できない。味の記憶が残らない。よって、また食べたいと思わない。動かない心は凍ったままだ。作業で終わることの恐怖は、時間がただただ無為にいつの間にやら過ぎゆくことだ。人の心を通さないものの最後は虚しい。手だけ足だけ。物質のみを通したものの作業は実質的には過程がないことと同義だ。脳という感受性の宝石が埋め込まれているのにも関わらず、ただの作業で終わらすこと。一日を、一週間を、一ヶ月をただ済ましていないか。ただ過ごしていないか。一年前の自分との余りの変わりようの無さに愕然とする。心を通さない経験が増えたことに起因するのだろう。少しでも心を動かしたい。映画を観たり、本を読んだり、人の話に感動したり。感覚をフル動員することで、日々を過ごすのではなく、日々を送るのでもなく、日々を積み重ねられるようになりたい。なんとなくそこが大人と子供の境目でもあるように思う。寿命は毎日減っていく。ただでさえ命を削っているのだから、せめて精神的気持ちは足していこう。ひたすらに失われていく感覚ほど虚しく、無意味で無抵抗なものはない。失われていく感覚しか得られないから、人はより焦る。急がば回る。時間はかかるだろうが、目の前のことに全神経を注入するようにする。いきなり実践できてしまえば楽だが、もはや僧侶の域であるので出来なくても一切気にしない。目で見た状況を率直に感じ取る練習からだ。集中の連続とは、無我夢中状態という境地である。それを、気を取られるとは言わない。気を、高めている? 注いでいる? いやむしろ言葉なんて何でもいい。本当の感動的な体験というものは、言葉にできないものだ。言葉にすると、他者にそっくりそのまま盗んでいかれそうで。それは、交換可能な言語というソフトウェアに変換するのが惜しいほど、己の心の内にしまっておきたいもの。まずは意識を。それ自体にはきっと1秒もかからない。目の前に、一瞬一瞬に、目が血走るほど全力であれ。現代人は視覚をムヤミに酷使するが、そうではないのだ。間違っている。視覚を酷使するのではなく、心を酷使するのだ。