書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

大事なのは理解する力ではなく、理解しようとする力だ。

 

 理解する力というものは、生まれつき備わっている天性のようなものだ。いっぽう、理解しようとする力は、後天的に獲得することができる力だ。理解する力とはちがって、自分の意識をつねに「理解しようとする」方へ向けなければならない。つまり、何かしらの努力が必要なのだ。自分に本来備わっていない性質をモノにするのは、なかなか骨の折れる作業だ。

 自分という器の中の操縦席に、赤の他人が居座りふんぞり返っているかのようだ。他人が何かを強制してくるとき、世間的にその能力が自分に欠けているものなのかもしれないという疑念を、客観的な立場でふりかえることが重要だ。ひとりきりで生きているだけでは気づけないことが沢山ある。他者は自分を映す鏡だ。適度ならいいが、いちいち噛み付いていては歩み寄ってくれる者もいなくなる。理解しようとする力は、移りゆく世の中と人間関係の中で欠かせないものである。

 完全に理解し切るまでの所要時間の個人差は当然あるものだ。だからといって、最後までめげてはいけない。めげずに挑み続ける姿勢が自身の進化につながり、他者への勇気づけにもなる。多くの相乗効果が生まれ、当人と果てはその所属する組織にまでも波及する。あと5年、10年で解散となる組織は初めから未来などない。未来がないということは、積み上げていく必要のあるものが無いということだ。それと同じで、まったく成長の気配も、聞く耳すらもたない者に人は手を貸さない。

 「言われるうちが花」であり、好きの反対は嫌いではなく「無関心」なのである。我々は、その差し伸べられた手を振りほどくことも受け止めることも出来る。注意すべきなのは、一度振り払われた手が、もう一度包み込んでくれることは基本的にないということだ。だが一度受け止められた手ならば、我々の第三の腕となるだろう。我々は強く声をあげることができる。言葉や、態度、持続する向上心。だがしかし、もっと具体的なものがある。

 それこそが、理解しようとする力なのであり、まさに「世界が見える」という次元を超えた先の「世界を見る」という肯定的な態度である。何気ない日常のワンシーンでさえ愛せるような広い真心の現れである、と言えよう。他者や世界を受け入れる器が形成されていく瞬間。それは自分を認め、他者を理解しようとする瞬間から始まっている。