書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

ティーラテみたいな優柔不断さを。

その名はティーラテ。お茶なのかラテなのか、はっきりしない。飲んだらラテと確信するが、生まれて初めてティーラテに出会う人は名前だけでの想像が難しいと思う。でもそれだけでティーラテを敬遠するのはもったいない。この微妙な言葉を自分の語彙のラインナップに加えてみたい、手懐けてみたい衝動に駆られる。そうだ、ティーラテみたいな気持ち、という使い方でつかってみよう。どっちつかずでかつ優柔不断なとき、僕の気持ちはティーラテに染まる。ただそれがお茶なのかラテなのか、ほんとうのところは誰にもわからない。

定期的な人間不信

 定期的に人間不信におちいる。人間関係ってのはほんとうにめんどくさい。そんな荒波に毎日もまれてちゃんと生き続けてる人間ってすごい。メンタル化け物。心は強いが、同時に脆い心も兼ね備えた不安定な生き物でもある。

 

 それぞれの人間一個体のなかに、一日の出来事でも良いことと悪いことがあって、良いこと80悪いこと20の日もあったり、良いこと0悪いこと100の日もある。だからといって、その怒りを八つ当たり的に他人にぶつけるのはちがうと思う。僕ならそんな人は友達でも先輩でもない。ただただ軽蔑の眼差しをおくる。なるべく社会に出てきてほしくない人だ。

 

 混沌とした時代において、定期的な人間不信は異常じゃないと思ってる。むしろ正常だ。いったん気持ちと精神をリセットするために必要なことなのだ。良いこと100の日なんてほぼないのだから。

あと一歩信用できない人

 僕の身の回りには、あと一歩信用できない人が2〜3人いる。もう少しで信用できそうなのだけれど、ギリのところで足元をすくわれ、結局また振り出しに戻るイメージ。ある意味で、あと一歩信用できない人という存在は、まったく信用できない人よりタチがわるい。なぜなら、後者は最初からあきらめていて期待ゼロのため全く気にする必要はないが、前者はもしかしたらもしかしたらと、毎回期待だけさせておいて最終的に裏切られるので、ただただ神経をムダにすり減らされるからである。

 したがって、あと一歩信用できない人≪まったく信用できない人なのである。なんで期待させるかなぁ、なんで裏切るかなぁ、ほんとうにただただ面倒である。まったく参ったものだ。だがしかし、この「あと一歩信用できない」というワードチョイスは我ながら気に入っている。なかなか憎い。この表現にピッタリ当てはまる人が見つかったとき、なぜか妙に高揚感がある。なんとも不思議な言葉である。

会社の鏡がきれいな理由

毎日毎時間お世話になってる、会社の鏡がきれいな理由を考えていた。水アカはもちろん、水しぶきも残ってない。これは誰かがきれいを維持してくれているからである。ふと掃除のおばちゃんが思い浮かんだ。そうだ、彼女たちが守ってくれてるんだ。我々の大事な鏡を。これは会社の鏡に限ったことではない。あらゆる当たり前が(日常では認知すらされない些細な当たり前が)、たくさんころがっている。今日も誰かの完璧な仕事で僕たちの生活は成り立っている。その当たり前に、いまさらながら感動している。

一日一回「無の時間」をつくる

現代人はじっとしてられない。ありとあらゆるものが画面から画面から画面から侵食してくる。それへの対応で一日などあっという間に終えてしまう。では、時間を長くするために何ができるだろう。それは一日一回「無の時間」をつくる以外にない。だがそれは並大抵の覚悟では達成できない。情報漬けになった我々には、情報端末そのものを物理的に断つくらいしか対抗策がない。そこまでして得られる「無の時間」はいいものだ、一度ものにするとクセになる。残念ながらこれも私の遠い記憶である。無の時間に思い起こすことは、何だったろう。仕事は大丈夫かな、友人は元気かな、明日は何を食べようか。これくらいである。だが、人間が考えることって本来これくらい少量でいいのだと思うし、それがスマホゾンビにならないための唯一の対抗策だと信じている。