書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

何も考えない時間は一日に何分ありますか?

 
朝目覚める。そしてまずこう思う。朝だ、起きなければ。寒い。布団から出なければ。立ち上がって歯を磨こう。歯を磨いている間にもう次のことを考えている。テレビをつけて、トーストを焼いて、アイロンをかけて。コーヒーも飲んでおきたい。こんなふうにして、朝は特に休まる暇がない。それが平日となれば、通勤途中の自由時間の最中にも仕事のことが頭をよぎる。まるで現在がすっぽり抜け落ち、未来だけが進行しているかのようだ。
 
予測のもとに物事が運ぶと、我々は安心する。時計で時間を確認するのは、現在時刻を知るためではない。実現されうる未来に必要な時間が足りているか確認するためだ。文字通り心が忙殺される。忙しない日常で一度立ち止まること。何も考えない時間である。何も考えないことをしなくなれば、頭を空っぽにする方法が分からなくなってしまう。常に考えることを強要されるのだ。未来から絶対に逃げられないという義務は時に重荷になる。
 
何も考えない時間とは、一人のとき何かに没頭していることではない。実際これでは考えてしまっている。目が一点を見つめ、二次元的に景色を見る。目を閉じ視界を無にすることで、自己との対話行為のみになりやすく一旦世界を遮断することとなる。
 
私が実際に行っているのは、週に一度カフェインを断つことである。もともとは、カフェインがないと一日が回らないという、自分の他力本願な部分に反抗するために始めたことだった。やりだすと、その日一日の終わりにはちょっとした達成感も得られる。カフェインに頼らずに集中力を維持できた喜びである。あくびでさえ心地良い。何も考えないようにするには、依存を一つずつ減らしていくことも有効である。
 
睡眠中のたった7時間の充電で、残りの17時間ものあいだ、心と脳と体をフルに運営し続けるのは無理がある。17時間の中で、何も考えないという余裕をもつだけで、今ほど人間は追い詰められることもないだろう。