書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

何も無いからこそ何か書く

 
 
ある朝、手書きの日記を書こうとしたらこんなワンフレーズが思いついた。B6のちいさな日記帳。なんでも思いをつづることが出来る夢の落書き帳。
 
“何も無いからこそ何か書く”
 
私はこの文言だけを書きのこし、そのノートを閉じてしまった。あまりにも腑に落ちてしまったからだ。
 
あなたにも無いだろうか。よしこれから何か書くぞ、という気持ちのときに、思わぬフレーズが頭をかすめ、あなたを離さなくなるときが。
 
それから一週間。そのノートは未だにその一言のみによって占拠されている。
 
いたずら心は私に語りかける。
それ以上、何も書くな、と。
 
書くことを放棄しているのではない。
書く意味が、無いのである。
 
それに逆行するかのように、この場所では、何も無いからこそ何か書いてみたい。
 
それは、無理やり書きつけるということではない。
なるべく頭を空っぽにして、したためるのだ。
 
誰かが言っていた。ブログを更新することを、「書く」でも「投稿」でもなく
「したためる」という表現をしていた。
 
したためる、といえば手紙に使われる印象がつよかった。
大事に思いを一つ一つ噛みしめながら、丁寧に縫い合わせていく作業。
 
言い方一つで人の意識というものはずいぶん変わるものだ。書くでもなく、投稿でもなく。
 
「したためる」という言い方に変えたらば、その瞬間に浮かんだ感情でさえ、一つ一つ丁寧に吟味して、読んでくれる人の表情を想像するようになった。
それは結果的に、自分を大切にするということにもなった。
 
 
何もない。いつもの日常。
だから、書くことが何もない、という決めつけ。
 
書いてみると案外、筆が進むことがある。
一行が五行に、五行が十行に。意外と書けることがあるという事実に驚きながらも、かいていく。
 
その場合、往々にして、伝えたいことというよりは、もはや無意識の産物に近い。
 
 
たとえ、一日中家にいたり、食料の買い出しで終始してしまった日であっても、人というのはあらゆる瞬間で空想している生き物なのだ。
 
それは忙殺された社会人の場合であっても当てはまる。実際に声に出して話すことよりも、自分が心の中で話すこと(セルフトークという)の量のほうが多いという統計が出ている。
 
それは、何か発言する前は大抵の場合、心の中でいちど復唱するという例一つとっても容易に想像できるであろう。
 
つまり、何も起こらなくとも、十分なのである。文章表現というものは、思いをなぞるだけで、成り立ってしまうものだからだ。
 
 
決めつけることは簡単だ。
ほぼ3秒とかからない。
 
今日は何もしない。
今日は何も書かない。
 
だがしかし、必ずやその二つは結びつかないので心配無用である。何もなくても書けてしまうのだから。
 
深層心理を無意識で抽出なされたような、むきだしの文章こそ美しい
 
人はいつでも心の中は正直で、饒舌だ。