書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

サラリーマンとは仕事と人間関係のプロフェッショナルである。

ほんとに我々が毎日あたりまえのようにこなしていることは、かけがえの無いことだと感じる。あるときは媚びへつらい、あるときは威厳を見せ、あるときは手を抜き。いったい何枚の仮面を被っているのだ。いや、被らされているのだ。そして、そんな異常で過酷な状況をさも平然と耐え忍んでいるのだろうか。もはやミニ仏陀かな。サラリーマンとは仕事と人間関係のプロフェッショナルである。だから我々は毎日もっと胸を張っていい。

なんにもない日に名前をつけましょう

今日は何もなかった。むしろどちらかといえば悪いことが目だった日だった。目だった日だったってなんか韻を踏んでるな。おもろいな。よし今日は目デーと名づけよう。何事も為せなかった日はたくさん存在する。だがそれらは決してムダじゃなくて、いまのじぶんを少なからず形づくっているものである。ほんとうにムダな日というのは、名前もつけてもらえずそのまま過去の渦に葬り去られたような日のことを言う。最強のチェンソーマンに食べられたものは、名前ごと消えるように。名前の消失は存在と、さらに過去の存在の軌跡までも葬り去ることである。最悪の罰といえる。だから、どんなにダサくたっていいので、1日1日、その日の終わりに名前をつけてあげよう。そうすれば、ふしぎとしぜんとせすじがのびてくるもんだ

本は相棒にならない、手帳は相棒になる。

本はいわばただの道具である。大事なのは本から吸収した何か頭に残るもの、それのみである。それが得られないような本は自分にとって不必要なものであり、邪魔でしかない。しかし手帳はいわば、自分の人生の肉片のようなもの。生きたりしんだりした、日々の自分の軌跡が包み隠さず詰まっているもの。"相棒"を軽く凌駕し、かぎりない過去の蓄積はある程度の未来までも予測できるだろう。自分の行動と思考のクセにいちはやく気づけるだろう。さながら思考の鏡である。たかだかいち道具では、自分を活かしたり殺したりなどできない。手帳という確かな痕跡は、人ひとり、もういちど生まれ変わるくらいのポテンシャルを秘めている。

朝のジムは同志に会える場所

朝のジムは神聖な空間である。顔も名前も知らない誰かと同じ場所に同じ目的をもって集結している。筋トレマッチョさんも、エアロビおじさんも究極的な目的=健康へ向かっていっているのだ。カフェはもっと多様でそれぞれの目的がばらけている。おしゃべりのため、本のため、勉強のため。そんなカフェももちろん好きだが、ジムはまた別の種類の好きである。明日はどんな仲間に出会えるのか。言葉を交わさず、空間内でコミュニケーションを交わす仲間たちよ。

きょうも無難に生きてしまった

大げさな言い方かもしれないが、きょうも無難に生きてしまった。無意識にスマホを確認、無意識に居眠り、無意識にTV視聴。人生の残り時間はだれにもわからないというのに。明日の晩御飯で寿命を縮ませてしまうかもしれないし、運転中にシカと衝突するかもしれない。残りライフがわからないのに、なぜ無難に時間をつぶしてしまうのか。それは今の年齢になんとなく慢心と安心感があるからではないかと思う。年長世代にとっては、私はまだまだ若くいわゆる働き盛りということになるだろう。その視線を感じるがゆえに、あ自分の人生はまだまだこれからなんだと無意識レベルに植えつけられるのだ。だめだ、時間は無限にあるという意識ほど人間を堕落させるものはない。気を引き締める。誰であろうと人間みな、シカと衝突する可能性があるのだから。