書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

まだ怒ってない、怒る準備をしているだけ。

明日、仕事のふり方が気に食わない営業部員に何かを伝えようとして怒る事前練習をしている。怒るという行為は、短時間かつ高確率で相手がこちらの言うことに従わせるための有効手段である。ただ、仕事において最も必要のない感情でもある。仕掛ける側は気にしなくていい。そんな怒りという感情を湧き起こさせた相手が10悪いのだから。欠点といえば、怒るという行為で失われるエネルギーである。突発的な怒りならまだ構わないが、それが何週、何ヶ月と継続されたものなら大変だ。その人はずーっと赤いエネルギーを灯し続けていることになる。だから私はその期間を怒りの準備期間と呼ぶことにした。まだ怒ってない。怒る準備をしているだけだと。その言葉のレッテルを貼るだけですっと気持ちがラクになった。

最悪の日の次の日は、普通の日だ。

いいことに気づいた。もしかしたら、世の中の真理の一つかもしれない、すごくいいことだ。最悪の日の次の日は、普通の日だ。これだ。2日連続最悪なことってまぁ起こらない。起こったとしても、イヤすぎてもう片方の日のことは忘れてしまうだろう。どうせ記憶から抹消されるので、最悪の日の次の日は普通の日だ。結局ここに帰結するのである。きょうが最悪でしたか?それなら大丈夫。あしたは最悪でもなく最高でもなく、きっと普通の日なのだから。

サラリーマンとは仕事と人間関係のプロフェッショナルである。

ほんとに我々が毎日あたりまえのようにこなしていることは、かけがえの無いことだと感じる。あるときは媚びへつらい、あるときは威厳を見せ、あるときは手を抜き。いったい何枚の仮面を被っているのだ。いや、被らされているのだ。そして、そんな異常で過酷な状況をさも平然と耐え忍んでいるのだろうか。もはやミニ仏陀かな。サラリーマンとは仕事と人間関係のプロフェッショナルである。だから我々は毎日もっと胸を張っていい。

なんにもない日に名前をつけましょう

今日は何もなかった。むしろどちらかといえば悪いことが目だった日だった。目だった日だったってなんか韻を踏んでるな。おもろいな。よし今日は目デーと名づけよう。何事も為せなかった日はたくさん存在する。だがそれらは決してムダじゃなくて、いまのじぶんを少なからず形づくっているものである。ほんとうにムダな日というのは、名前もつけてもらえずそのまま過去の渦に葬り去られたような日のことを言う。最強のチェンソーマンに食べられたものは、名前ごと消えるように。名前の消失は存在と、さらに過去の存在の軌跡までも葬り去ることである。最悪の罰といえる。だから、どんなにダサくたっていいので、1日1日、その日の終わりに名前をつけてあげよう。そうすれば、ふしぎとしぜんとせすじがのびてくるもんだ

本は相棒にならない、手帳は相棒になる。

本はいわばただの道具である。大事なのは本から吸収した何か頭に残るもの、それのみである。それが得られないような本は自分にとって不必要なものであり、邪魔でしかない。しかし手帳はいわば、自分の人生の肉片のようなもの。生きたりしんだりした、日々の自分の軌跡が包み隠さず詰まっているもの。"相棒"を軽く凌駕し、かぎりない過去の蓄積はある程度の未来までも予測できるだろう。自分の行動と思考のクセにいちはやく気づけるだろう。さながら思考の鏡である。たかだかいち道具では、自分を活かしたり殺したりなどできない。手帳という確かな痕跡は、人ひとり、もういちど生まれ変わるくらいのポテンシャルを秘めている。