書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

65歳男性Aさんにおける特別なチョコレート

 

 本日、朝刊で一般人の投書欄にチョコレートにまつわる興味深い内容があった。チョコレートがテーマだったのは、バレンタインデーが近いからであろう。内容は65歳無職の男性によるものだった。それは、今はチョコレートをコンビニでも気軽に買うことができるが、戦時中は高級品であったので、食べると今でもそのときの記憶が蘇ってくるという内容だった。さらに当時チョコレートは、口の中に入れてもすぐに溶けてなくなってしまうので、他の水飴と一緒に口の中に入れ、どうにか口の中の甘さを維持していたというエピソードで投書されていた。

 

 これを見て思った。私達はたくさんのモノに囲まれていて、ある程度働いていればそこそこ不自由なく暮らせている。しかし、今回の彼のチョコレートのように、あるモノとの最初の出会いがいつまでも記憶を支配しているということが誰しもあるのだと思う。ピーマンが食べられない子供は何かしらの特定の原因があるのかもしれない。例えば私なんかは、夏の暑さの中、冷たい水を一気飲みすることに大きな喜びを覚える。誰しもそうであろうが、私の場合は特別な喜びなのだ。それは、少年時代、過酷な暑さのなかで野球をしていたからだ。水をガブガブ飲むと監督の目が光っていた。後ほどわかったことだが、喉が乾いたからといって、水を大量に飲むことも体に良くないらしいのだ。

 

 という、それぞれの人にそれぞれのモノエピソードがあって然るべきなのだということを今回悟った。65歳男性にとってのチョコレートは、安価で入手しやすくなった今でも、いつまでも(おそらく死ぬまで)特別なものだという認識が変わらないように。このような心の奥底にある特別な感情が多いほど、人は喜怒哀楽を表せられるし、それはいい意味でも悪い意味でも、人生が色彩豊かになる一因に違いないし、誰にも奪えないモノなのだと思う。