書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

「電車の事件のように」という犯行供述の違和感

 

先日、都内の居酒屋で店長を人質にとった立てこもり事件があった

店員の機転の利いた対応により大きな怪我人はなかったという。

 

犯人の供述によると、

「長崎から上京して、2週間前から路上生活を送るようになり生きる意味を見失い、最後に罪を犯して死刑になりたかった」とのこと

最後には「電車で起きた事件のように」とこぼしたという。

 

そもそも支離滅裂で論理がよくわからないのだが、私から言わせてもらえば、

現在の生活状況に追い込んだ責任の一旦の当本人がまず自分自身であるにも関わらず、それを棚に上げ他人を巻き添えにし、死刑になりたいといいながら、自死することもできない軟弱者としか言いようがない。

 

おまけに、「電車で起きた事件のように」というのは、あの凶悪事件を指しているのだが、私が気に入らないのは、今回身を挺してまで成し遂げたかったはずの犯行動機にすらも自分の明確な意思がなく、またも他人案件を持ち出しているところだ。

 

何もかも他人のせいだ、社会のせいだ、自分は正しいとして周囲に迷惑をかける。このような人たちは、たとえ凶悪事件を起こさなくとも、遅かれ早かれ何かしらの悪事には及ぶことだろう。

 

自身の存在意義を見失った人間による、凶悪事件が今後も起こりうることを思えば身震いがする。

 

当然のことだが、こういった頻発する凶悪事件の供述において、第三者として犯人に同情したことは一度もない。

 

そして本当に恐ろしいのは、こういった事件が増加すること以上に、我々庶民が「最近物騒な事件が多いね」と、さも日常の一部として受け入れてしまうことである。