畠山さんどんだけ所有してんねんというタメ息が。畠山さんという稀代の骨董品コレクターが所蔵の品々を京都国立博物館へ一堂に会しているのが今回の展覧会。こんだけ文化財を所有なさっているなら何回展覧会が開けるのだろうか。やはりタメ息しか出ません。
これはNHKラジオの特集で展覧員から語られたエピソードなのだが、畠山さんの名品を現地から京都まで運ぶ際に、その土地の文化財を守る会みたいな人たちが紋付袴姿で、出発駅に集結をして御見送りされた逸品もあるとのこと。正直ボクはこのエピソードが決め手となり、もう次の日には国立博物館の門をくぐっていました。この目でみたくなっちった。
そこには、いわゆる当時の豪族たちが使用したであろう茶器の数々、宴会場で運ばれてくる朱漆のお椀セットみたいなのも30人分くらいものやつが、当時のツヤツヤのまま残されていました。そして能で用いられる、艶やかな羽織物なんかもありました。こんなん時代劇でしかみたことない! 舞台からは見えない、服の内側に着るもの(今で言うインナー)なのに所狭しと贅の限りを尽くした黄金の装飾で彩られていたり。「舞台から見えない部分なのに」ですよ? 職人の遊び心とそれを実現してしまう高すぎる技術力に頭があがりません。
そりゃみんなお客さんマイ双眼鏡もってくるわな。もっと近くで繊維の奥の奥までみたいもん。だってさだってさ、現代の私達ってこんな極上品たちを時代をぶった切って一度にぜんぶ鑑賞できるのです。それはまさに、ハリーポッター全7編まで発表されてから一気観するような、マトリックス全3部作まで発表後に一気観しちゃうような贅沢感と背徳感でしょう。
そして私は思いました。茶器とか羽織とかって、当然ながら当時はその目的をただ達成するために生み出されたもののはずです。お茶を点てる道具であったり、寒さを凌ぐ羽織物であったり。あくまで日用品としての存在意義に過ぎなかったはずです。それが時代を経ることに、その目的が一段階上にいってしまっている感があるのです。
つまり、本来の目的から離れてしまって、それらをただ「観るだけ」「手元に置いておくだけ」で価値がある、価値を感じられる一次元上の存在になったということ。「使う」から「観る」へ。究極の嗜好品とは、いつの世もきっとこうあるべきなのだ。
p.s.
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