書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

なぜ我々は書くのか

 

ここでいう我々とは、ブログや日記帳等に自分の文章をしたためる習慣をもつ人たちのことを指す。身近な人に訊いてみると、そんな習慣はおろか、本を読んだり文字に触れる習慣すらないことを知る。どうやら、仕事など必要性のある場面以外で文字を読んだり、自分で文字を編みだすという行為はかなり特異なことであるようだ。おかしい。皆が同じように義務教育を受け、同じように大学まで通っている者もいるというのに。少なくとも私は、私のこれまでの人生、「自分の意志で書く」ことが一切なければ、かなり彩りを失っていたに違いない。いま手元にあるインクと手垢で汚れた数々の手帳達は大事な大事な資産だ。まだ50年以上はあると思われる私の残り人生における現時点においても、それは強く確信するところである。そうかといって、書くことを他人に強要するマネはしたくない。読むことと書くことは、野菜を食べるようなものであるからだ。他人に強要などできるものではない。それに、野菜は食べなくても生きてゆける。栄養はサプリメントに全部詰まっている。だが、野菜を食べることは、血の流れを良くしたり、食感を味わえるといった新たな楽しみを享受できるのではないか。書くことは必要ではないが、心を豊かにする。だからせめて、私が楽しそうに日々書き続けることで、誰かにとっての大切な時間とかを増やすことができたならこれ以上の喜びはない。そして人間なら誰しもが、書き続ける習慣を一度もってしまえばもう手放すことはないだろう。それほど、「書く」とは人の心の動きに直結している、ごく自然な行為なのだ。