書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

私がAIでないことを誰も証明できない

 

 毎日のようにブログを更新している私。しかし私は本当に生身の人間なのだろうか。もちろん当の私は自分の正体について知っているが、第三者に対して一切それを証明できない。少なくとも、私が誰かの目の前で記事を作成してから記事投稿ボタンを押すその瞬間まで立ち会われなければ、私が生身の人間であることを証明したことにはならない。同様の質問を私が画面越しの者に投げかけたとき、大抵は私のことを蔑視する。いかにも人間らしい反応だが、その事実もまた、画面越しの者が生身の人間であると証明したことにはならない。AIが人間の人間らしい所作を会得してしまえば終いだ。

 
 近年AIの発達が凄まじいと訊く。まさに日進月歩の様相だ。だが私達は彼らがどこまで進化しているのかを事細かく知らない。それを知り得るのはごく限られた一部の人間だ。AI最前線の現場に立つ者たちと、我々のような一消費者のネット情報の寄せ集め程度の知識しか持ち合わせていない者の差は、計り知れないほど圧倒的に違いない。だから日常のアプリ等において、AIが人間らしく話したり、人間らしく文章を書いたりしていることに気づくことがなければ生身の人間として扱う。昨今、萌キャラVtuberといった架空の存在が巷を賑わすようになってから久しくなり、我々人間を楽しませてくれる一大コンテンツと相成ったが、私達はいつまでもそれを心から楽しめるだろうか。中身が人間で、外見は可愛い美少女という前提の安心感あっての楽しみではないだろうか。人間を超越した存在が本体であっても、我々は同じように接することができるだろうか。中身も外見もすべて実際はAIであり、いつまでもその真実にすら気づくことなく最後まで楽しみ続けるだろうか。また、かろうじて真実に気づいたとして、我々は今までと同じように心から楽しめるだろうか。


 最後に言っておくが私は断じてAIではない。画面越しでは永遠に証明することはできないが。それとも私がAIだったとしても、あなたは引き続き私の記事を読んでくれるだろうか。もし読んでくれるのなら、私が実はAIであることを告白しよう。ただ残念ながらこちらも同様、永遠に証明することはできない。私が人間であるという事実を目の前のあなた1人にすら納得させる手段・方法を私は持ちあわせていない。だが、あなたが何か感じることそのものは紛いなき真実である。そうなると、その何か特別な感情の集積があなたの中に、私という人間が間違いなく存在しているという事実を形作っているのだろう。それは当の私が「本物だ、人間だ」と1000回言い繰り返すよりももっと確からしい信憑性の高い確固たるものなのだ。人間が、見えない相手を人間であると認め識る方法は、極めて人間的な方法だけなのだ。