昨日のこと。職場の同僚男性をフルネームで呼んでみた。年齢は2つ3つだけ向こうが上だ。もちろん「親しみを込めて」である。それと彼は日々の仕事に忙殺されていたので私なりの気遣いという意味合いもある。だがそれを受けて彼は忙しさに加え、年下の私に突然フルネームで呼ばれイラッときたのか「おちょくってます?」と言ってきた(そうだ)
というのもこの出来事は、彼と私との直接的なやりとりではなく、もう一人の同僚を介してのやりとりだった。その「もう一人の同僚」が彼に向けて冗談半分で、「書くザトウクジラさんがあなたのことフルネームで呼んでたよー笑」くらいの軽いノリで伝えてくれたのだろう。私にとってそこまでは計算内だったし一向に構わなかった。
予想外だったのが、彼のあまりにも冷めた反応だった。「おちょくってます?」 この出来事はそこそこ私に響いたことだったので、一旦気持ちを整理してここに記している。で その結論が本タイトルにもある「言葉は“体”を表す」なのだ。
私はふだん誰に対してもフルネームで呼んだりしない。そして彼に対し初めて使った結果、このような“響く”事態となってしまった。この場合、「明らかな冗談に対してマジレスする彼は疲れていた」とするのが世の結論なのだろう。そして、水を差すような、からかうような吹っかけをした主が悪いということなのだろう。
しかし、「おちょくる」という言葉は少なくとも私の認識では、あまり他人に積極的に用いられるような言葉ではない。そんな言葉を咄嗟に口にした彼。私は心中を察した。言葉は体を表す。
私は何時いかなるときも言葉には気をつけているつもりだった。配慮が足りないと人に言われればそこまでだが。だが人をフルネームで呼んだくらいで、おちょくってるんですかという爆弾が返ってくるものか。やはり腑に落ちぬ。喧嘩をやっている訳じゃあるまい
言葉は時に、いや常に、ナイフより鋭い。
何日も何ヶ月も心に残りつづけることがあるからだ。いやそれでも短いくらいだ。問題を起こした当人と常に顔をあわすような環境ならば最悪だ。どちらかが退場でもしない限り、半永久的に心に植えつけられたままの状態が維持されるからだ。生き地獄
私は、いくら心境的に追い込まれていたとしても、絶対に今回の彼のようになりたくない。これが私の結論であり、揺るがない本心である。
ナイフは身を抉り、言葉は心を抉る。
言葉は人を乱す。放ったほうも放たれたほうも程度の差はあれど。彼も悪かったし、私も悪かった。その可能性だってある。だが今後彼に冗談を言う機会はぐっと減るだろう。いずれにせよ言葉の力を思い知る出来事となった。
今回の件に限らず、なんでこの人はこんな言い方をするのだろうと思うことは身の回りだけでも数多くある。
でも僕はやっぱり言葉で人を幸せにしたい
言葉はそうあるべきだと思う
とある生徒間で問題がおきたとき、いつかの全校集会で校長先生が言っていた
“ 言葉は魔法のようだ ” と。
先生、僕は今日やっとその言葉の本当の意味がわかったような気がします。
言葉そのものも、言葉によってつけられた傷も取消すことができない。
言葉が魔法ならば、その魔法で私は奇跡を起こしたい。