髪でも切るか。街の散策中に思い立つ。某有名チェーン店の看板。ここなら知ってるし安心だ。入店時、店内はガラガラ。ヨシ今日はついてる。このときはまだそう思っていた。
椅子に座る。僕はいつもの髪型モデルの写真をスマホで見せる。写真の人はバリカン1mmの短さなので、いつも僕はこの写真の人ほど短くなくていいので3mmにしてもらえますかという話から散髪が始まる。
一人目のおばさんがカットを担当してくれた。初入店の店舗だがその慣れた手つき。あっという間にカットが完了した。概ね当初の要望どおりの仕上がりだ。
二人目のおばあさんのターン。眉毛の下、剃っておきますかにゃ?どうやらこの店の顔剃り担当らしい。はい。僕は答えた。さらに2分後、眉毛の下、剃りますか?あたかも初めて訊きますがのようなテンション。はい、お願いします。なるべく感情を表に出さないよう僕は再び答えた。もうすでに僕はこのおばあさんに対して不安でいっぱいだった。大丈夫かこのおばあさんの記憶力、そして腕前。仮にも今日出会ったばかりの赤の他人に顔面への入刀を委ねるのだ。不安にもなる。
滑り出しは眉毛からだった。最悪、まぶたが2枚になることも、眉が荒野と化すことも辞さない構えだった。お客さん、眉毛ェキレイに揃えてはるねェ。あんまりにキレイやから、わたしゃ、お客さんの剃り跡とおんなじように剃らせてもらいましたえ。こてこてのお世辞に反応する余裕すらこのときなかった。少々時間はかかったが、特に痛みは感じなかったのでうまく剃りあげてくれたのだろう。次は頬。まぶたの皮に比べればはるかに分厚いので、心持ちは安らかであった。人生で初めて私は頬の皮膚の厚さに感謝した。しかし問題は、最大の問題は「耳」だった。
初めて暴露するが、私は物心ついた頃から耳が苦手なのだ。さぁ、我が耳よ。今回の相手は手強いぞ、心を燃やすのだ。大丈夫、俺は長男なんだ(本当)。おばあさんも耳をヤワな部分と悟ったのか、加齢による手の震えを必死に抑えながら、きわめて慎重に私の耳公と向き合ってくれた。だが、震えが完全に停止したわけではない。これならまだ志村けんがコントで扮した床屋のおばあさんの方がマシだ。と、そのとき目の前のおばあさんが刃を握りしめながら久々に口を開く。力ぁ抜いておいてください、前の鏡を見ておいてくださいにゃあ。そう、今の私はまな板の鯉。猫なで声のおばあさんを前に為す術のない魚。この場合むしろ下手に動くほうが危険なのだ。全集中、鯉の呼吸。私は覚悟を決めた。鯉柱になる覚悟を。
その後も何度か顔面を強張らせながら、なんとか事なきを得た。ごめんなさい、2番目のおばあさん。こてこてのお世辞とか、志村けんのコントよりヒドイとか思ってごめんなさい。2番目のおばあさんは何も悪くありません。悪いのは初対面の人に心を許せなかった僕自信の心の狭さです。
そう、本当の鬼(敵)は己の中にいたんですね…