世の中には、発信側の人間は数パーセントしかいないという話を聞いたことがある。実際多くの人は、なにか情報を得るだけで大抵は満足してしまうのではないだろうか。発信するのは単に面倒なことだからである。私の好きな言葉に「人がやることと、やらないことの境界は一つ。面倒くさいか、面倒くさくないかの差だけである」というものがある。それほど、面倒なことという一見容易に突破できそうな障壁は案外、何かを成し遂げる際に初めて壁として出現し、高く高く立ち塞がるものなのだ。
なぜ発信者の割合が低いのか もう一つの理由は、そもそも特別発信したいことが無いからである。これほどシンプルで深刻かつ、満場一致の非の打ち所のない明白な答えもない。だが果たして、本当にそうだろうか。それは一問一答を何日も繰り返し引きづりだした、傷だらけの答えといえるか。発信することそれ自体を最初から放棄してはいないか。現実社会でも気にしているようなことをネット社会においても気にしていないか。初めからこの世界でも人の目を気にしていると、結局はただ人のために何かをしていることと変わらなくなる。大きな空間であればあるほど、自分の意思が他人の意思に平気で飲み込まれる。そうやって他人の時間を生きている亡骸の打つ文字は画面上でも滲んでみえる。
発信する きっと それは才能だ
発信しない きっと それも才能だ
だが強いて言えば 人々の心をゆり動かすほうが才能に近しいと言えるのではないだろうか
読み手がいるから 僕らは文字に人生を込めたくなるのだ 有り難いことだ
自分の時間を生きている人間の打つ文字は明らかに輝いてみえる
心に届き一層それは、いつまでも色褪せないその人の生き方、考え方の一部分になるのだ
こんな想像しだすとキリがないところに本当に可能性を感じるし本当に好きだ
想像の範囲外へ無限大のオリジナルネットワークを張り巡らせる
少なくとも私は思考の手を止めない
不特定の誰かに影響を与え続けたいと思っている
まぁだからこそ こんなに一年半以上も何かを書き続けている とも言えるのだが