書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

僕は、おそらく、文字完璧主義者。

 

 ブログとはふたつの要素で構成されている。

 他者満足と幸福性である。

 

 一言一句にこだわりたがる癖がある。ここで「。」をつけるべきか、「、」で区切るのか、あえて区切らずそのままつなげるべきか。ツイッターもブログも誰かへのリプライも色々と策を巡らせたくなる。最初に正解が出るわけではない。どんどんと言葉を作り出していく過程でそれは生まれた。文字とは消さない限り残存するものだが、消去する前提で生み出しているのでは、いくらでも安い文字が量産されてしまう。そうではなく、やはり文字とは残存させる前提で生み落とされるべきである。


 生みだされるものの時間帯、精神状態によっても大きく変化する。飲み明け暮れた花金の夜、帰宅しキーボードに向かったとして良いものが生み出されるはずがない。休日の朝、疲労感の無い朝、本当の意味での素の自分であるとき、自分を阻むものはなくなる。


 そして書く内容を事前に決めつけるのでもない。メモに記しておき、机の上に書くべき内容を貼り付けておくような野暮なことはしたくない。例えばそれはリスの写真が撮りたいからと言って、予めどんぐりを獣道に並べておくようなものだ。そのようなことで良いものが生まれるはずがない。良いものとはやはり、自然発生的に出来あがるものだ。レールの上を歩くのではなく、歩いた跡にレールが生まれ、さらに未来の自分の道標となる。


 とりあえず書いておく、これもまた有効な方法だ。日ごとの様々なパズルを散りばめ、最終的につなぎ合わせる。まさに自然発生のいいとこ取りである。日が変わっても自分がそれを発信したい、という強固な信念の継続、すなわち発信者としての絶対的自信である。一度眠りにつき、次に目覚めたとき、それは果たして同じ自分なのかという有名な考察がある。人の脳は一度眠ると好き勝手に情報の整理を始め、些細な情報は抹消され、必要と判断された情報だけがより強く上塗りされていく。

 自然発生のパズルと、日々生まれ変わる自我(脳)とのせめぎ合いをサバイブしたコンテンツだけが言語記号として出力されるべきだ。


 もはやそれは、何か書いてみるまではわからないという次元ではない。思いつくような思考回路があるという自信(それは必ずしも実証されている必要はなく、思い込みであっても構わない、自分自身を騙すのにも才能がいる)が僕をペンの、いや思考の虜にさせてくれるのかもしれない。


 とここまで息巻いて書きつつ、我ながら思うことがある。たとえば。こんな長々と鬱蒼とした文章のどこが自然発生的なのだろうか。ブログとは自己満足と貧乏性である。だからまぁしょうがないのだ。定義したあとに再定義を打ち崩すこと、再々定義したあとにさらに再々々定義し打ち崩すこと。結局はこの繰り返しなんじゃないかと思う。ブログに限らず。発信者はその途中経過を表現しているだけに過ぎない。それが人の生き方そのものなのだから。

人は、人の生き方に一番ひかれる。