疲弊しているのではない。だが、面倒くさくなっているのとも少し違う。たぶん。リアルが充実しているから、必ずしもブログで満たされる必要がないのであろう。そう信じている。
体力など考えたこともなかった。息を吸うように自分の胸中を文字に変換していた。だが、書くことが呼吸のように機能しなくなったときは、もうそれを行う体力が残ってないのだと解釈するようになった。
つまり、一見深刻そうにみえるこの事態は、たかが体力の問題に過ぎないのだ。会社から家に帰り、ごはんを食べ、そしてそのまま気絶するかのごとく睡魔に堕とされる。泥のように眠る。この場合本当の泥のようである。もちろん目覚めもよろしくない。泥のような後悔とともにいつの間にやらタイムスリップをしている感覚だ。いや正しくは、タイムスリップをさせられているのだ。つまり、その先に待っているのは後悔のみで最終的にそれだけが残存するのである。激しい後悔と強烈な自我。
しかし、いやはや、やはり文字に起こすことは心を落ち着かせる。たったここまで走り書きするだけで平静を間違いなく取り戻しつつある自分を実感する。現金なものだ。この二行あと、三行あとに何を書くのか、どういった言葉が生まれるか予想のつかないことと、己の感情が文字に変換し連結されるまでのせめぎ合いの、なんと尊く儚いことか。あたかも時間を支配したかのようなキブンになる。
あぁ、こうしてまた、ブログという名の道にふり戻されてゆくのだろう。ここまで来ればもはや、道を逸れることそれ自体が初めから予定調和というか用意されたレールというか、運命のように思えてきた。ヒトはしょせん有機物である。今でこそデジタルだのインターネットだの騒がれているが、なにも人間の本質までは変わっちゃいない。いつだってだれだって、火をみると落ち着き、海をみれば心穏やかになるものだ。
ブログを夢中で書いているときも、イヤイヤ書いているときも、人のブログばかり見ていたいときもある。常時一定ではない部分にこそ、人間らしさや自分らしさが宿るのだ。それを知った日から私は、すべてを受け入れることにした。