書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

一日後に忘れることは大したことない

 

たとえばTwitterのつぶやき。ただひたすら他人のタイムラインをスクロールしていくことになんの意味があるのだろうか。よほど動向が気になるユーザーのみを通知オンにすれば事足りるはずだ。

 
 

序章

 他人に振り回される時間ほど虚しく無益なものはない。それはまるで行きたくもない飲み会の二次会に似ている。いや、お酒の場では現実的しがらみがあるから致し方ないところがある。
 しかしSNSは顔も合わせていない人々のほうが圧倒的に多い。自分のペースで、適度な距離感で、本来自在につき合えるはずだ。逆にいえば、この人のツイートをいいねしないといけないとか、リツイートして仲良くなりたいとか、そういう見返りを期待しての交際は尚更切り捨てるべきである。もしくは一旦距離を置くべきだ。強要される人間関係ほど暑苦しいものは無い
 本題に入る。昨日の誰かが何か言ったつぶやきを今思い出せるだろうか。少なくとも私は思い出せない、何一つ。
 やはりそういった、記憶に刻み込むレベルになると有名人のそれが凄まじい上に影響力も高い。残念ながらその個人名までは失念したが、「人を試すような、心の狭い人間にはなるな」という趣旨のことが140字内でかつ、人を納得させられる程度のちょうど良い長さで見事に完結されていた。日常的に高水準な思考とアウトプットを繰り返していることの賜物といえよう。
 
 では、どういった内容のことが記憶から漏れないのか。「忘れない」ということは、脳が優先順位をきめて、忘れてはいけない記憶の貯蔵庫にカギをかける現象だと思っている。すなわち、自分が本当にしたいこと=本能的に求めていること=自分にとって有用な情報はきっと忘れない。ここで、以下私が考える三案件を提示する。

 

 

忘れない三案件

自分のとっておきのアイデア

 あえてメモをとらず、アイデアの状態で一晩寝かせてみよう。徹夜の勢いは動物的な爆発力があるが、次の朝起きて待ち構えているのは、その日で一番冷静な自分である。未だにロングセラーの外山滋比古著「思考の整理学」を学生時代に読んだことがきっかけとなり、時間帯価値の差について考えるようになった。次の一文を特に鮮明に記憶している。
 
朝の時間は金、昼の時間は銀、夜の時間は銅
 
 時間の価値というものは一日の終わりに近づくにつれ、だんだんと色あせていくものなのである。頭が冴えている朝に思いつき、翌朝さらに冷静になった頭で最終調整をする。それはまるで朝と朝でつないでいく思考のリレーのよう。

 その中で徐々に研磨され残った原石だけが、記憶という貯蔵庫に保管されるのだ。 

 

面接(等重要局面)で言うこと

 人生の岐路を決める面接、会社内での人柄が確立するスピーチ、披露宴での言葉、真実を伝えるベき記者会見。重要局面においての発言内容は忘れないし、諳(そら)んじて話すという行為そのものに、周囲から自分への信頼感も増すであろう。本当に思いの込もったものこそが、その人の真実の言葉であり、魂の叫びである。それらは、自然と記憶してしまうというよりも、己に刻み込まれるものという解釈のほうが適切かもしれない。
 

ブログ等に書きとめておきたいこと

 文量が長くなる場合があるので、あらかじめ箇条書きで言いたいことをピックする。要点書きといえど、その「点」同士がつながり、やがて「線」に変わる。自分が考えて文字にしたことを伝える→伝わる。この瞬間を想像したときの喜びが大きいほど、我々ブロガーはわくわくし、雷に背中を打たれたほどの衝撃を同時に覚える。
 
以上が私の忘れないことである。三つ全てに見出される共通点は何か?
それは特定の人に何かを伝える気持ちがあるか、ないかの違いであると思う。

 

 

最終章

本当に伝えねばならないことは、自然と覚え、自然と忘れる。だからあなたが忘れっぽいのではなく、日々の生活に刺激が足りていないことの表れなのかもしれない。
 
ある意味では思考とカレーライスは似ている。一晩置いておけば、より格別の味に生まれ変わるが、二晩以上おくとどうであろう。味の鮮度そのものが落ちてくる。
思考においても同様のことが言える。ある程度温めすぎると今度は、発信することそのものへの意欲低下につながるということが予想されるのではないか。
 
いずれにせよ「自分の頭で」考えることを止めない限り、想起と忘却の境界線も顕然としてくるであろう。