書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

水と本さえあればいい。

思考して、摂取して、循環させて。

究極の2つを決めるならば、水と本だろう。

 

衣食住と同等か、さらにそのうえ。

人間が人間たらしめるために最低限必要なもの。

 

思考が偏っていると感じたときは、

使い方を変えて、水は飲まず、頭から被ればいい。

そうすれば頭を冷やし、また次のまともな思考を続けられる。

 

今悩んでいるそれは本当に必要な出費か、この二択はそうした欲望の歯止めにもなってくれるであろう。

 

心の奥底から渇望するもの。

それは案外もう手にしているかもしれない。

「うまく生きる」と「幸せに生きる」はちがう

「いかに精神を乱さないよううまく生きていくか」が人生の目的になっているという悲しい人達へ。コミュニケーションを円滑にいかせて、学校や職場で人間関係を難なくやっていきたい。いわゆる、形だけうまく生きようとしている人達だ。例えば書店にはそういう本がよく並んでいる。確かに興味をそそられ、思わず手にとってしまう。なぜならみんな生きることをしているからだ。全員共通という、全体条件をただターゲットにしているだけ。ずいぶん横着なことだ。この上なく横柄でラクマーケティング。つまり、生きている人間みんなに関係のあることである。しかし、結局のところ「うまく生きること」と「幸せに生きること」はかなり違う。だからみんな、平均以下の自己肯定感を日々なんとなく騙し騙し持て余し生きている。「うまく生きる」はただそれなりに、問題がないように卒なく日々を過ごしたいと願う「平穏消極型」である。それに対し、幸せを覚悟した生き方というのは「危険積極型」とでも呼ぼうか。まぁこの際呼び方なんてどうでもいいのだが。文字ではなく概念として、いやただの群像でもいい。それぞれの人の心の腑に落ちたならばそれでいい。だがしかし未だ結論は出ず。大丈夫だ、今はそれでいい。たかだか30の若造にそんなことが分かれば世界はきっとひっくり返る。しょせんこの世はツギハギだ。目に見えない左胸のほうにある心というやつですらしょせんツギハギなのに。さて、ということで本議題の結論は少し先の未来の自分へ譲ろうと思う

眠気でアクビが出るんじゃない

退屈だからアクビが出るんだ。眠気がありまくっても、今まさにやりたいことに熱中しているのなら、不思議とアクビは出てこないものだ。

 

仕事中のアクビは、眠気もちょっとあるだろうけど、やっぱり退屈だからという要因のほうが大きいと思う。

 

アクビが出たら、惨めになる僕。最近の生活習慣を悔やんだり、寝る前のスマホを嘆いたり。アクビは、自己肯定感を下げたりもする、侮れない魔物、人類共通の敵なのである。

 

そんなとき、これを言い聞かせればいい。

眠気でアクビが出てるんじゃない。

退屈だからアクビが出てるんだ。

私はわるくない。

 

書いて書いて書きまくる

この際、スマホでもボールペンでも何でもいいから、書くことが尽きるまで書きまくるのだ。

 

心のうちに複雑に絡み合っていた問題が案外シンプルであることに気づくだろう。

 

いっぽうで、自分の頭にはこれだけしか詰まってないのかと疑心暗鬼に陥ることもあるだろう。それでも収穫があったといえる。

 

それをバネに、今後意義のある時間を過ごそうとする心がけるようになるだろう。 

 

さらに、語尾に「?」が多いか「!」が多いかで、自己満足指数もわかる。どちらが多い方が理想であるかは、火を見るより明らかである。

人生には幸も不幸もない

そこにあるのは、人と比較して幸せ/不幸せというあくまで相対的なものである。絶対的な幸せなどない。幸せはそれ単体では存在しないからだ。どうだろう、なかなか想像以上に厄介だろう。自分以外の他者がいなければ成り立たないもの、それが幸せである。だから、人は他人に優しくできるのかもしれない。他者を大事にすることは、自分を大事にすることなのだ。どうだろうか。何が起きようともあるがままに受け入れよう、諦めではない、勇気が湧いてこないだろうか。大抵の場合、幸せに浸る間もなく、ただ日々をすり抜けていく。さらに、時間がある程度経過してから「あれは、今思えば幸せだったのだ」と気づくことがある。幸せはちょうど時間差でやってくることもあるから余計に厄介である。