書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

きょうがいつでも人生の頂点だ

毎日、人生のピークを更新している。思い込みじゃなく、腹の底からそう感じる。たいへんだったころを振り返ることも、たのしいこれからの未来を想像することも同じ意味をもつ。なぜなら、そのときの私はいつでも同じ表情をしているから。今か、今以外か。今はいくらでも変えられるが、今以外のことは髪の毛一本変えられない。過去を受け入れることは、未来を引き受けること。そして、今を懸命に生き抜くこと。毎日に最高の瞬間を。そのためには少しでも気分よく。他人にやさしく、自分にやさしく。

人生をまっすぐすすむ

きんようびの朝5時50分。いつもより早く起きた。全能感による目覚め。たぶんきのう会社で褒められたから。自己重要感がみなぎっている。心の余裕ができている。これからもっと本を読み、経験をつみ、自己成長し、もっとチームの誰かに尽くしたいと思える。国の歴史すら変えてきた、人としての善の感情だ。お菓子やジュースはほどほどでいいと思える。娯楽食に逃げる必要がないからだ。むしろ“ムダ”は排除したくなる。人生をまっすぐすすみたくなる。働きさがりの僕、育ちざかりの子ども。まいにちたのしい。それなりではなく、かなりの幸せ。手からこぼれ落ちるほどの幸せ。映画のような人生。ああ今ボクはとても主人公している。

毎日1個モノを捨て、毎日1個新しいことをする

最近、ふと目にとまった家の中の不要なモノを捨てるようにしている。1年間使ってないものなんて、急に無くなっても困るはずがない。そういうのは、早く視界から取り去るべきだ。捨てるとき必ず思う。もっと早く捨てておくべきだったと。放置された選択肢は、ただ野放しにされ続けた生活に必要のないものというわけだ。その1日1捨ての状態で、新しいチャレンジも同時並行で行ったらどうなるだろう。まさにスゴロクでいう一回に2マス進める無双状態といえるだろう。心の荷物を脱ぎ捨て、心をさらに弾ませる。まるで人生が加速してくるようだ。

人生の主役は自分である

めんどくさいという感情は、おそらく、いま自分が自分の人生のなかにいるという感覚が欠落したことにより生まれるものだと思う。日々に忙殺され、週末しか呼吸をしていない私たちは、よく忘れてしまう。よりによって大事なことから忘れがちだ。人生の主役は誰だったかとか、家族のささいな変化とか。今日の天気情報とかゴミ出しの日とかよりももっと大事なのは、これからの人生においてずっと続いていく事柄だ。大事な人のこと、大事な自分自身のこと。今日1日を無事に終えられたのは、自分だけの力じゃない。学校の先生友達、職場の同僚上司。いろんな影響を受けながら、人生の時間は流れている。それに自分で気づいて初めて、生かされているのだという自覚がうまれる。あらたまった感謝などいらない。大事な人にただ微笑んだり、すこし優しい言葉遣いを心掛けるだけでいい。明確な敵などいない、自分のいきすぎた思い違いだったと各自が気づくだろう。その瞬間、みんなそれぞれが主役になり、世界はもう少しだけ丸みを帯びる。

頭のなかを書き出せば

頭のなかを紙に書き出すこと、それは、掻き出すことと同義である。悩み事すべてが排除されたような錯覚におちいる。案外この程度だったのかと。そもそも人ひとつの脳で抱え込めるキャパには限界がある。たとえ10〜20個抱えていようと実際にとりかかれるのは、数個であろう。悩みが無限にあっても、手は二つ。一つずつやっていこう。期限づきのものから優先して手をつけていこう。工夫に工夫を重ね、毎日必要なことだけやって帰宅するサラリーマンは素敵です。